2009年05月08日

● 山が燃えよが潮干狩り

今、地元の古写真を集めて写真集を作っているのだが、身内から変な写真がぽろぽろ出てきた。

これ、とか。


yosi2.gif


昭和49年の春に燃えている名草山である。
名草山はちょこちょこ山火事を起こしていたので、みんな慣れっこだったとか。


yosi1.gif

ボッボ燃えてきたけど気にせず潮干狩りを楽しむの図、ですね。


それから、我が家のルーツをたどればこんな人も。
昭和42年、庭で酒を酌み交わす老兄弟。名をヨシタカ&ヨシナカと言う。
花見か?

yosi.gif

一升瓶振り上げて満面の笑みのヨシナカさん…。
ワタシにはこんな血が流れてたのね、ありそな話だわぁと感慨深い。

ちなみにこの二人、最後はいつも兄弟げんかで派手に解散となったらしい。
両者ともとっくにあの世だが、お騒がせな兄弟だったと語り継がれている。

身内以外の写真はアップできないが、けっこう面白い写真が色々。
眺めていたら、日本はこの50年ほどで激変したんだな〜としみじみ思う。
環境のためには江戸時代の暮らしに戻さねばってよく言われるけど、ほんの50年巻き戻すだけでもずいぶん違うだろうね。

posted by きたうらまさこ at 22:39| 紀伊半島 書き歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月05日

● 土蜘蛛のイワクラ

「とても暖い一日になりそうです。貴志川のイワクラを散策したい気分です」と朝からメールが届いた。
先日、名草山のイワクラに案内していただいた山本さん(土蜘蛛らしい)から。

山本さんは「貴志川のイワクラに行ったけど、たどりつけなかった」と話していたので「またご案内しますよ」と言ったんだが…。

今日デスカ?

そりゃ私だって、こんなポカポカした春の日に山登りなんかしたいけど、しかしそれなりに予定もあるので、「明日の午後なら」とお返事し、翌日の曇天&寒風にイワクラへ。

鳩羽山の中腹まで車で登って、そこからは歩き。
曇ってはいたが素晴らしい眺めである。
山頂に着いて目の前に大きなイワクラが現れた時、山本さんは「背中がぞくぞくする」とおっしゃり、私にも「ぞくぞくしませんか?」と聞いた。

うーむ。残念ながら私はどんなパワースポットに行っても何も感じない。

「なんも」

シラっと答えると、山本さんは「感じてよぉ」と言いつつ、がくっと膝を折った。
こういうリアクションする方を久しぶりに見たなぁ、と思いつつ一句。

土蜘蛛の 古老と見渡す 山桜


tutigumo.jpg

☆土蜘蛛について過去の記事はこちらです。

http://pasaran.seesaa.net/article/31282606.html

http://pasaran.seesaa.net/article/75931983.html
posted by きたうらまさこ at 10:47| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月30日

● 鬼のネットワーク

土曜日まで、東京からなかひらさんやSTUDIO M.O.G.の社長、小野田さんが名草戸畔の取材に来ていた。
今回が6回目の和歌山取材で、驚いたことに、私たちが出会ってからもう3年もたつとのこと。
思えば3年前、迷惑メールに紛れ込んでいたなかひらさんのメールを、ギリギリのタイミングで見つけて以来のご縁である。

3日間、私は何もしないで彼らに同行した。
古代史の研究者を訪ねたり、友ケ島から虎島に渡ったり、名草山に登ったり。
夜には他の友人たちも参加して、みんなで食事をしながら語り合った。
面白すぎるが、詳しいことは書けない。頭おかしいと思われるからね。

さて、この3日間で私はパワーアップしてるはずだし、今日からしっかり働かねば。
ありがたいことに仕事もいただけて、またしても崖っぷちから救われた。
なので新しいパソコンを購入し、力強い助っ人も確保した。
落ちそで落ちない綱渡りが、まだまだ続きます。



posted by きたうらまさこ at 08:29| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月10日

● 紀州備長炭 窯出し写真

2備長炭窯2.jpg
posted by きたうらまさこ at 01:09| 紀伊半島 書き歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月09日

● 旧南部川村で森を学ぶ 4

「いつも突然お邪魔してすみませ〜ん」と言いながら、再び原さんの窯へ。
「また来たこいつら」と思われへんかなとドキドキしながら下りて行く。基本的に「会えたらラッキー」のアポ無し取材なので、すみません。

炭窯全景.jpg


原さんと息子さんは、一緒に炭の選別作業をしていて忙しそうだ。「4時までに問屋に持っていかなあかん」らしい。焼き上がった炭を選び、長さを調整して切る作業を見学させてもらった。炭を叩くとカンカンとキンキンの間みたいな、澄んだ金属音がする。ウバメガシの木がこんな音を出すほど堅くなることにあらためて驚きつつ、じわじわとにじり寄って見る。無視しにくい雰囲気が漂ったのか、原さんの息子さんが炭を切りながら親切にレクチャーしてくれた。

原炭選別.jpg

「炭はょ、ある程度ヒビが入ったぁる方が火力があるんやで。お客さんは炭、知らんさかな。きれいな炭ばっかりほしがる。カンカン…… 
炭はカドから火ぃついてくる つるつるの表面から火ぃつかんで。ヒビは空気穴のかわり こっから息するさけよ。見た目悪いけど。キンキン……
ある程度のヒビあるほうが火力出る。お客さんはべっぴんさんばっかりこだわるけど。表面柔こて芯が締まったらええ。要は炭っていうのは芯で締まってたらええんやで。カンカンカン。こい(これ)でええ。ほれ」

と、手渡してくれた炭を持って凝視するも、わかったような、わからんような。
ただ、炭の切り口の美しさに見とれていると「炭はきれいやでなぁ」と息子さんもぽつり。炭を焼く作業は、芸術的だなぁと何となく。

備長炭の断面写真.jpg

息子さんによると、表面に赤い灰が乗ったものを「赤走った炭」と言い、品質の良い証拠なのだとか。「どこでもかんでも、こうはならんで。木のはえちゃぁる土質や」
赤走った炭ができるかどうかは、原木のはえている土の質による。どこの木でもこうなるわけではない、という意味。ちなみに山へ原木の伐りだしに行くのも、炭焼きさんたちの仕事だ。木を伐って、炭にして、売るところまで、全部自分でする。

「最近の選別はサンマの頭としっぽと取って売るよなもんやて言うぐらいよ。端を切っていく。昔はこんなことなかった。もったいないなぁ。よぉ締まったぁんのに」と言いながらカーンと切る。

「出荷する時は本来は端も付けていく。昔は品評会したらよ、この焼き小口と締まりで見たんよ。そやから、なるべく端も付けとく」

最近は見た目のきれいな炭が好まれるために、箱詰めする時に両端を落として真ん中部分だけを入れるのだが、炭焼きさんにとったら、それは悔しいのだと思う。自分が焼いた炭は、見た目より質で評価されるべきだという自負がある。その自負を示すため、なるべく端を付けたままで出荷して焼き小口を見せる。「わかる問屋やったらわかるよ。何で付けたぁるか」

「最近、あんまりみんな見た目のべっぴんさんこだわるさけ、ちょっと…」と言って、息子さんは苦笑い。「言いたくもなるでホンマ」という感じかも。
炭を使う人が近頃、居酒屋のアルバイトのお兄ちゃんで、料理屋の職人さんではなくなってきたのも一因で、昔ながらの炭はよう使いこなさん、らしい。

紀州備長炭は火が付くのが遅い。でも、いったん火がついたら長時間燃え続けるという特長がある。「まぁ炭いこしてみな。白い灰になるやつから黒い灰になるやつからある。赤い灰になるのがええ。一番 火力安定してる。黒は一番タチ悪いな」と言うと、お父さんが「うん」とうなずいた。私には難しい話である。


原窯6.jpg


「炭はね、炭焼きさんの性格出るんやで。わかんのやで。優しい炭、はしかい(短気な)炭。気のはしかい炭は、さっきワシが「ええ炭」やと言うたやつ。あれは、はしかい。
今、お客さんに喜ばれるのは優しい炭。基本的にツラのええ、ヒビの少ない炭は優しいよ。
何でなって言うたら時間かけてゆっくり焼いてるさけ、きれいにつまるんやだ。ウチなんかおじやん(親父)と2人やろ、焼ける人間が。ほいでに窯の回転が早くて、はしかい炭や」

「おじやんもワシも短気。昔からおじやんの炭を重宝する問屋があって、ところが、うっかりまちごて知らん問屋へ行ったら、逆にあれっ?て言われる。面白いで。
きれいな炭がええんやって言う生産者もあるけど、古い問屋の大将らにワシらが教えられたんは “見た目二の次、締まり一番”や。最近は見た目ばっかりにこだわって、ほいでに火力ないって言われる、とわしは思てるんやけど」

背後の窯の中では、次の原木の炭化が始まって、煙が酸っぱい匂いに変わってきた。「このやり方が紀州藩が守りやった生産技術や。何にも変わってないで。熱い窯へくべて、回転を早うする。今は原木をくべるんに窯の中へ入るろ? 焼き方変わったもんな皆」

熱い窯に、外から道具を使って原木を入れるやり方と、冷えた窯の中に人が入って原木を並べるやり方があって、今、消費者に好まれる「べっぴんさんで優しい炭」を焼くには、後者の方法が適しているので、多くの炭焼きさんがその焼き方に変わってきた、という意味(だと思う)

「昔からの、おじやんらのやり方は、今日窯出ししたら、1時間ほどしたらすぐに窯入れや。
そのほうが効率ええんや。フル回転で大変は大変やけど、慣れやよ」

原さんの所では週に4回も窯出しをしているそうで、かなりのハードワークだと思うが、「炭焼きは面白い」と親子で言う。(これまでIターンの方も含めて数人の炭焼きさんに話を聞かせてもらったけれど、みなさん「炭焼きは面白い」とほんとに面白そうに目を輝かせて言うのだ)

それから、お母さんも貴重な労働力みたい。
資料によると、かつて(昭和の始め頃)、熊野の尾鷲地方では、夫が焼いた炭を炭俵にして、妻たちが頭に乗せて山から運んでいたそうだ。

原炭運び.jpg

原さん(お父さん)の奥さんも16キロある備長炭を背中に背負って運んでいた。さすがに今は車まで。

箱詰めを全部終えると、息子さんはこう言った。

「よその窯へ行ったら、人の炭はぜったい探んな、手にとってみるな。手触り、重みでわかるさけ、失礼やってワシらは聞いた。ここらにも40人ぐらい炭焼きさんおるけど、皆こだわりあるさかな」


「古いベテランさんは見ただけ、音きいただけでわかる。どんな炭ってわかる。カンカン切りよる音聞いたら、ええ炭焼いとるなぁ、悪い炭焼いとるなぁってかわかる。そやから、人の炭は触ったらあかん。“窯ええ匂いするなぁ。炭ええ音するなぁ”って言うのがマナーなんや。お互いよう炭を知ったぁるさけ、技術もあったさけ、そこらへんようわきまえてる。最近はそんなんものうなったけど。古い炭焼きさんがおる時は面白かったで」

炭焼きさんたちはみんな誇り高く、互いに競い合っていたから炭の出来を探り合うことをよしとしない暗黙のルールがあった、ということ。ちょっと離れて匂いをかいで、音を聞いて「なかなかよぅ締めとる」と言うのが礼儀なのだ。


出荷の準備が終わると息子さんは「今日の話は初級編やな。まぁゆっくりしていってよ」と言って車で問屋さんへ。

原さんに「お父さんも一服してよ。いつもすみません」と言うと、「今日は朝からも取材やったんやで。田舎に泊まろうっていう番組あるやろ」

「えーーーっ!」

「わしも知らなんだ。今朝まで。まぁちょっと写さいてよ、って言うことでよ」

「誰来たん?」

「知らん、忘れた」

「いつ放映?」

「3月26日。わしぁ出んけど、息子は映ら。ここで説明しちゃぁるやつ」
(日曜日の番組なんだが、あとで調べたら3月26日は日曜にあらず。いつよ〜?)
「来たんは40過ぎの女の人やった。わしとこのちょっと下の家へ泊まった」(誰よ〜?)

えらいとこまで来たもんぢゃっ!!」と原さんがふんぞり返るようにして言った。

ううむ。
今回もありがとうございました。次回はぜひ窯出しを。

posted by きたうらまさこ at 22:23| 紀伊半島 書き歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月26日

● 旧南部川村で森を学ぶ 3

清川地区を車で走っていた時のこと。前方に連なる山並みを見ながらくねくねした細い道を登っていくと、とうとう人家もなくなった。「もう何もないみたいやし、戻ろか」とカメラマンのGABUやんと相談していた時、道路脇の谷に炭焼き釜を発見。窓から見下ろしたGABUやんが、「うわっ。ごっついええ顔した爺ちゃんや!」と嬉しそうな声をあげたので、車をおりて歩いて行ってみることにした。

「ごっついええ顔した爺ちゃん」は、原さんという炭焼きさんだった。カメラマン魂に火がつくのも納得できる「ええ顔」で、私は一瞬、森のニングルかと思ったよ。

原さん5.jpg

背景の森や窯にあまりに溶け込んでいるので、ある種の崇高さを感じてしまった。谷間に立ち込める「気」の作用かもしれないけれど……。



炭焼き窯の前には七輪があり、「これ使って魚焼いて食うたん」と原さん。

備長炭.jpg

パシャパシャと七輪を撮影するGABUやんに「昼写さにゃぁ。きれいやったんやけど。昼写したらそりゃきれいや」と言う。
解説すると、お昼ご飯にこれで魚を焼いて食べたので、その時写したら炭が燃えている様がそれはそれは美しかったのですよ、と残念がっているのである。「もう1時間早かったらなぁ。昼写さにゃぁ」としきりにおっしゃる。
七輪の横には魚のしっぽだか頭だかちょぴっと置いてあり「犬に持って帰る」とまたまたキュートな笑顔で。


炭焼き釜のそばに、ちっちゃな小屋があったので「ここはなんですか?」と指さすと「別荘」とのこと。


原さん、寝泊まり小屋.jpg

「こんばん泊まらんなんね。こんばん泊まらんなんさけ、ふとんひいたぁる」
朝まで窯の番をする夜に、時々体を休めるための小屋である。
「ひとばん窯の番せんなん。1時間に1回ぐらい、しょっちゅう起きる。ゆっくり寝れん。ただ横になるっていう程度やな」

「大変ですね〜、寒いのに。朝までずっと番して、明日窯出しで…」と言うと、ふふっと笑って「好きなもんやなけりゃ炭焼きら、ふん、ようせん」と答えた。
「好きなんですか?」と一応聞いてみたら、「まぁ好きやな。好きやさか」と力むでもなく、自然に。そして「もうじき70歳。15からやさけ長いわなぁ」と感慨深げな声で言った。

「小屋の中、見たいです!」とお願いすると、快く入れて下さり「電気つくんやで。暗けりゃ」と明かりをつけてくれた。片隅にはテレビも置いてあって「テレビは、みな(よその炭焼きさんの小屋では)ひいてないわな。2局しか映らんけど」

炭焼き小屋1.jpg

「ふとんひっちゃがして。はっは。えらいとこ写されたなぁ。立派な小屋よぉ」と照れつつも、親切にあれこれと相手をしてくれる原さん。カメラを手にいきなりやって来た誰とも知れん私たちを、いやがるでもなく、いぶかるでもなく、わざわざ作業の手を止めて……。こういうウェルカムな感じに慣れてしまうと、とんでもなく無遠慮な人間になりそうで怖いんだけど。(ちょっとなってきたけど)

それから原さんは大きな樽のふたをあけて、うす黄色い木酢液を柄杓ですくって見せてくれた。鼻にツンとくる酸っぱい匂い。

「これいっぱいたまったぁるんやけど、きれいなやで。こしたぁる(濾してる)さか。
ここへぽたぽた、竹つとて流れてくる。水虫に最高や。くさいけどな」

木酢液の煙突.jpg

木酢液に手を出したら「なめてみ?」と。

で、「おいしいろ?」と。

おいしいんです。いや、ほんとに。
酸っぱいんだけど、おいしくて、何度も指をつっこんでなめるなめる。

木酢は竹の煙突をつたって、ぽたぽた落ちてくる仕組み。
「竹の煙突はおやじの代から。竹が一番ええ、一年ぐらいしかもたんけど。ちょうど変えたとこや、美しろ?」


窯からは煙が立ち上っているので、独特のいい匂い(と思うようになった)があたりに充満している。この煙は体に良く、肺病にも効くとかで昔から「炭焼きさんは結核にならん」と言われたとか。

「これ吸うて悪かったらとっくに死んどるわ。わしゃ町にようおらんもん。あの排気ガス。車の。ひっくりかえるよ、東京ら行たら」と原さんはケラケラと笑った。我々も同類なので、つられて笑った。愉快である。

別れ際、ふと思いついて「この上の道はどこへ行くんですか?」と聞いてみた。
私たちが走ってきた細い車道は、この先まだ山道が続きそうな気配だったし、どこに続いているのか気になったんである。
原さんは「どこへでも行ける。高野山でも大阪でも、どこへでも」と明るい声できっぱり。

やっぱりそうか…。ずっと古くから、山には山の交通があるわけで、平地を中心にして考えれば、ここは不便そうな奥地だけれど、山を中心にして見ればここは奥地でも僻地でもないのだ。
「どこへでも行ける山道」が目の前にあるわけだしね。


〈追記〉

原さんの窯を出て集落におりていった時、松本さんに会った。撮影したばかりの原さんの顔をデジカメの画面で見せて「こんなええ顔した人はおらんですよ」と熱く語るGABUやん。画面を見つめてきょとんとする松本さんは「ここらへん、こんな顔の人ばっかりや」とぼそっと言った。

木酢液の煙突.jpg
posted by きたうらまさこ at 02:23| 紀伊半島 書き歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月24日

● 旧南部川村で森を学ぶ 2

清川地区は古くから紀州備長炭の生産地。高齢の炭焼きさんに加え、Iターンでやってきた若い炭焼きさんもいる。紀州備長炭の知名度が高いからか、炭焼きを志して他府県から来る人がちらほらいるそうだ。「みな知らんから来る。炭焼きがどんだけしんどい仕事か、知ってたらけぇへんで」と地元の方が笑いながら言った。

清川で私が見学させてもらったのは、小学生を対象とした緑育。緑を育てると書いて「りょくいく」。
森や炭を通じて環境を学ぼうという体験学習なんだが、紀州備長炭の原木となるウバメガシを植林したり、古老の炭焼きさんの窯で窯出しを体験したりというカリキュラムだ。

体験学習の前に、まず松本さんが小学校に出向いて、2時間に渡って授業をしたそうだ。昔の炭焼きさんは当たり前のように森を守りながら、森を利用してきた。その精神を伝えたいのだと松本さんは話していた。
「ここらの子ぉは、ものすごい真剣に聞いてくれた。やっぱり炭焼きの血ぃが流れちゃあるよ」と誇らしそうである。

というわけで、学校のすぐ近くの里山へ。古老の炭焼きさんと奥さんはホイホイ登っていく。子どもたち(5年生全員で12人)もノコギリとウバメガシの苗を持ってケロケロと付いていく。ところがかなりな山道。「ちょっと登るだけって言うてたんちゃうん?」と私はガケをよじ登りながら体力の衰えを知ることとなる。

現場に到着すると子どもたちはノコギリで木を伐り始め、指導役の炭焼きさんは数人の子どもを引き連れて、斜面を駆け下りるように姿を消してしまった。私も「伐るべき枝、残すべき枝」を教えてもらいながらノコギりを使ってみたけど、思うようにはいかない。
枝の一本もロクに伐れやんのに森がどうのこうのと書いたらあかんなぁ、としみじみ。

写真は古老の炭焼きさんと奥さん。腰にカマをさして歩く後ろ姿にしびれた。

南部老夫婦.jpg
posted by きたうらまさこ at 16:49| 紀伊半島 書き歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月16日

● 旧南部川村で森を学ぶ 1

「炭はねぇ、地球を救うと思うんや」

岬に突き出たホテルのカフェで、その方は言った。
壁一面のガラス窓には、あおあおとした太平洋。すっきり晴れた空を横目で見ながらこんな言葉を聞いてしまったら、やたらと胸に響いてくらっとする。

話を聞かせてくれたのは、森林組合の松本さん。
40代後半ぐらいの男性で、森のこと、備長炭のことを熱っぽく語る口調や表情がまたまた素敵で、目にきらっと☆が入っている雰囲気の人。

松本さんの現場、旧南部川村は和歌山のトップブランド「紀州備長炭」の主要な生産地だが、2004年に村の名は消えた。海側には南部町という日本一の梅の産地があり、そこと合併してひらがな表記の「みなべ町」となったんである。
合併によって川の上流と下流に住む人々がひとつの町の住民となり、海の人と山の人が交流する機会も増えたので環境への関心も高まっていると聞く。(近海での漁獲高が減っているのは、森の荒廃が原因であるとして、漁師さんたちが山に繰り出して植林なんかもやっている)

で、なんで炭が地球を救うのか?

地球温暖化を防ぐために、二酸化炭素を吸収する木を植えようとよく言われるが、木を植えっぱなしではあかん。山をいきいきと若返らすためには適度に伐採し、木を利用していく必要があるわけで、ローテーションがうまくいってないとダメなのね。

利用の方法なんだが、木を燃やしてしまったらせっかく吸収した二酸化炭素が再び大気中に放出される。でも、炭にすれば吸収した二酸化炭素は半永久的に閉じ込められる。それを粒状に砕いて土にまけば微生物の活性を高めて土壌が改良され、川や海もきれいになる。木を植え、木を育て、炭にすることでCO2を固定化し、また木を植えて……という循環で二酸化炭素を減らしていける。トシのいった木はあまり二酸化炭素を吸収しないので、古い木を伐って炭にして、新しい木を植えたら若い木はどんどん吸収するし、しかも山全体が命を吹き返すやないか、という発想。

「紀州備長炭は日本一の炭。燃料として一級品です。その技術と文化は残していかなあかん。そやけど、それとは別に環境やエコのための炭があったらええんちゃうか。廃材でも何でも自然の木ならぜんぶ炭になる。みなべ町内で年間約6000トン出る梅の剪定枝も、燃やしてしまうと二酸化炭素が出るから炭にしたらええと思うんよ」

「おおっ。それはすごい!」と私は感動してしまった。

こんな前向きなことを考えつつ仕事をしている方が紀伊半島にいて、出会えたことがありがたい。(「紀州備長炭」で検索してたまたまヒットしたというご縁)

その後、海を背にして山間を30分ほど走り、炭焼き窯が点在する旧南部川村清川地区にご一緒させてもらった。清川、という集落の名も私は初めて聞いたのだが、何て言うか、ぽっかり異次元みたいでファンタジックな山里である。

清川全景.jpg
posted by きたうらまさこ at 09:55| 紀伊半島 書き歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月10日

● 北山紀行 5

さて、北山紀行でもうちょっとひっぱります。取材不足でまとまりのない文章ですが、とりあえず。

◆ 筏夫組織の話

東さんの話は、よどみなく続く。

「わしは15、6の歳から筏の修行をした。その頃は村内に筏師は300人ほど。独り立ちは3年から5年。だいたい5年で一人前。練習は七色から大沼まで。あんまり流れのきついとこ無いさか。弟子の教育は年寄りさんの役目。年寄りさんは今で言うたら定年退職した人じゃけど、じゅうぶん働くだけの力ある。弟子は七色から年寄りさんと一緒に下して来て、1、2年たったら今度は中乗りさんを乗る」

聞いていると、筏夫組織の強い結束が見えてくる。だいたい30〜40人ぐらいでチームを組み、久保組、小屋敷組など大沼地区だけでも4組あったそうだ。各組には川帖(かわちょう)さんと呼ばれる支配人(組員の中から適任者が選ばれた)がいて「今日は筏が何台やから、人員は12人」と手配する。12人のうちの3人ぐらいは「年寄りさん」で、七色から大沼までの「かみゆき」を弟子と共に乗り下す。

川帖さんたちは、どこかの組だけが儲けることのないように、仕事が多いところは減らし、少ないところがあればまわす。川帖さんがいるから、どこの組もみんな平等に請負仕事がやっていける、という仕組みになっていた。

「ひとつの組だけが得するということはない。我々には平等を重んじる精神があった。互助の精神も強かった。みんな助け合いするし、目上(年長)の人を尊ぶ」

瀞八丁までの間に流れがゆるやかになると、そこで年長者を先に帰らすために、若い者が2つの筏を連結させて乗り下すことも多かったと言う。「年寄りさん」という呼び方にも、尊敬といたわりの気持ちが現れているような……。

「今の人には、そういう、心のほぐれた人があんまりいない。互助の精神が欠けとるように思うね」と、東さんはちょっとしんみりした。



◆ 職人たちの話

「村には筏を編むための道具を作る職人さんもおった。筏を編む材料も当時は全然ないさか(市販のものは)、藤葛やヒノキの枝を使った。ヒノキの枝は夏場に筏を組むのに便利だった。ヒノキの枝は冬はねじれん。冬ならホウソ、ゾウキ、ナラを使う」

この話もややこしい。私はまだよくわかってないので間違っているかもしれないが、もう少し書いておきたい。

筏の連結にはネジと呼ぶヒモを使ったのだが、藤葛やヒノキの枝をねじって作る。ヒモを専門に作る人を「ねじ切り」と呼んだ。
連結穴は「メガ」と言い、メガ穴を掘る職人を「メガ切り」と言った。
ネジ木は筏師が自分で作ることもあったが、専門の職人が作って筏師に売ることもあった。

(ちなみに筏の数え方を1台、2台と東さんは言っていたが、資料には1床、2床とあった。一つ一つの筏が「床」で、「床」の連結したものは、「一巾」と言うらしい)

「いずれも僻地での作業じゃが、生活の糧としてじゅうぶんに仕事があった」

山村での仕事がじゅうぶんにあったことは、女性が現金収入を得ていた事からもわかる。経済の循環がうまくいってたんだろうし、山の暮らしは何であれ「循環」と「共生」で成り立っていたのだろう。東さんが言った「平等を重んじる精神」の根底にも、循環の思想があるように思う。

◆ 山の交通の話

「道路が出来るまでは、川は重要な交通路だった。瀞八丁からイマダキ(?)、小松あたりまで下から舟に荷物を積んで逆に上がってきた。そこからは山越え。背中にせったろうて(背負って)、天秤にかついで、塩とか食料とか。年代とともに道路も開発されて、最初は木炭車で物を運んだ」

山中には、筏師たちが新宮から歩いて戻ってくる山道もあった。(終点の新宮まで下る人も交代制だった)ちょっと調べてみたら、古くは、新宮−桐原−トロトロ坂−尾呂志ム風伝峠−通り峠−丸山千枚田−赤木城跡−大沼 というコースのよう。 

東さんの時代(昭和20年後半から昭和30年年代)は、新宮から西山(現在の熊野市、旧紀和町)までタクシーか、後に開通したバス(所要時間3〜4時間)を利用した。西山から大沼までは徒歩1時間ほど。
生活物資も西山まではトラックで来るようになった。そこからは肩に担いで、塩や米を運んだ。

熊野地方の山間部ではかつて、荷運びの仕事を女性がすることも多かったみたい。昭和30年代の高度経済成長期には、山村の女性は男性よりも働いたとも聞く。過酷な労働のつらさを紛らわせるために、喫煙率は男性より女性の方が高かったという話も。

仕事を終えてタバコを一服している女性の姿を思い浮かべると、「過酷な労働のつらさを紛らわすため」だけとも思えない。現金を稼いでくれば権利も主張しやすかっただろうし「男並みに働いてるんやしタバコぐらい吸うわ」というたくましさがあったように思えてしょうがない。

posted by きたうらまさこ at 19:38| 紀伊半島 書き歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月06日

● 北山紀行 4

北山村、大沼地区に暮らす東さんは80歳の元筏師。
背筋が伸びてがっちりした体格は、急流の筏下りで鍛えたからかも。
向かい合って座るとまず、「今日は何の話を聞きに来たんか。筏か、じゃばらか」と問われた。(実は東さん、特産のじゃばらで村起こしを成功させた立役者の1人でもある)
「あのぉ、筏の方で…」と答えると、口元に力を込めて「ふん」とうなずいた。

東さんが現役で下っていたのは何十年も前のこと。なのに、何を聞いても昨日のことのように淡々と答えてくれる。時折見せる眼光のするどさは、長年きびしい自然と対峙してきたゆえか。向き合っている時は緊張していたから余裕がなかったのだが、今から思うとかなり、かなりの人格者である。

東渉さん3.jpg

話がちょっとややこしいので、ここで東さんに聞いたポイントをまとめておきたい。(間違っているかもしれんけど)

北山川は上流の奈良県下北山村から、和歌山県北山村まで山間を蛇行しながら流れてくる。北山村に入ると、上流から七色(なないろ)、竹原、大沼、下尾井、小松の5つの集落を経て、瀞(どろ)八丁へと流れ込み、熊野川と合流して新宮市へ。
まず、北山川上流の木材は下北山村の筏師によって、七色まで流されてくる。そこで筏は北山村の筏師に引き継がれ、下北山村の筏師は棹と櫂を持って山道を歩いて帰った。

七色から大沼まで乗り下すのを「かみゆき」、大沼から瀞八丁までを「なかゆき」、瀞八丁から新宮までを「しもゆき」と言い、「なかゆき」を乗り下す人を「中乗りさん」と呼ぶ。要するに筏リレー状態。

「なかゆき」コースは急流で蛇行も多く難易度が高いため、筏を何台も連ねて下ることは無理。10人〜12人ぐらいで、1人で1台ずつの筏を操っていく。
瀞八丁にみんなが到着したら、河原で筏の組み直し(連結)をして、5台ほどの筏を連ねてひとつにし、そこからは2人が終点の新宮まで下る。中乗りさんは、瀞八丁で筏をおりて山道を3時間歩いて大沼に戻る。

筏師たちが腕を磨いた難所のひとつに、オトノリがある。
地図には音乗、とも書かれているけれど、実は弟乗で、「こんな危険なとこ、家督を継ぐ大事な長男を乗せてはならん。ここはひとつ、次男、三男、四男で」というわけで弟が乗るから、オトノリ。


「新宮まで下るんは夏場やったら2日。途中で川のほとりの木賃宿に泊まる。中乗りさんは泥八丁までを乗り下すのに、だいたい2時間かかるが、それは順調よういくとき。中乗りさんは泊まらんと帰る」

「順調よういかん時とは?」と聞くと「水量の目安の違った人や上手下手。車乗っても下手なのおるし、車庫入れしてもなんべんも切り返さんなんのもおる。筏もカンのいいのと悪いのと。浅瀬に乗り上げるとか、大きな岩盤に持ち上がるとか。体力も消耗する。みんな1台ずつ乗ってるから手伝てもあげられやん」

難儀している仲間を横目で見ながら、下って行くしかないみたい。

北山川は急流で渕と瀬が連続しているために、古くから筏師たちの腕も磨かれてきた。見事な櫂さばきで木材を傷つけずに流したことで有名だったとか。
明治39年には、大沼の川辺熊太郎さんが、70人の筏師を率いて北朝鮮と中国の間を流れる川、鴨緑江まで出稼ぎにも行っている。
その後の35年間、熊太郎さんに続いて、多くの村民が筏流しの腕一本で鴨緑江、豆満江、大同江に行っており、戦争中も筏の技術が買われて、ニューギニアまで。

posted by きたうらまさこ at 02:32| 紀伊半島 書き歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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