2010年06月29日

小説家の内緒話

友人が山田詠美と瀬戸内寂聴の対談本『小説家の内緒話』を貸してくれた。
山田詠美さんの小説はずいぶん前にいくつか読んだ記憶がある。今でも好きな作家の一人だ。
寂聴さんは出家する前、瀬戸内晴美を名乗っていた頃の作品から好んで読んだけれど、私が若すぎたのかあんまり記憶に残っていない。が、寂聴さんは作品よりも人物のほうが面白そうなので、怖いもん見たさでずっと注目している。
何が怖いって…。
思春期だった私の目には、彼女は「難義なおばはん」に見え、あんな人が家族や親戚にいたら大変やなぁと思わせるものがあったのだ。
あの手の破壊型な女は、平安を求める子どもにはかなわんのである。

寂聴さんはこの対談でも、相変わらずの生臭さを炸裂させながら芸術至上主義を説いていた。
作家は芸術家であり、才能だけの世界だから純粋である。しかも芸術は後世に残るからすごいのだ、と。
「私は特に芸術が上等だと思っているの。(芸術家は)普通と違うの!」と力む。
いるよね、こういう人。

しかしある時、寂聴さんの作品を読んだ宇野千代さんは、彼女にこう言ったそうである。
「瀬戸内さん、あなたは小説家を特別の職業と思ってる。そこが間違っている。小説家なんて、パン屋や八百屋と同じよ。そう思いなさい」
寂聴さんは幾日か考えたあげく、「やっぱり、小説家はパン屋や八百屋とは違う」との結論に至ったそうだ。

ふむふむ。
パン屋や八百屋と小説家が同じかどうか私はわからないが、面白いエピソードだなぁと思う。
宇野千代さんだって作家である限り、命をけずって書いていたに違いない。(長生きだったけど)
でも、それを大げさに考えてなさげな宇野さんが天才なのか、それとも、双方の美意識の違いか。
……こう書くと寂聴さんをちょっと批判しているみたいだが、そんなことはない。
私自身も小物ながら「やや難義なおばはん」になってしまったという事もあり、寂聴さんを見ていると「正直な人間ほど面白いもんはない」と感心する。

そのあと、田辺聖子さんのエッセイを読んでいたら、「作家も死ねば忘れられるし、小説なんかも忘れ去られるもんよ」と、さらりと書いていて可笑しかった。
例えば、今の時代では漱石、鴎外、谷崎、太宰、三島ぐらいしか名前が知られていないし、志賀直哉や川端康成でさえ、もう危ういんだとか。
「小説は流行り歌にもかなわない。小説は力弱きもの」と語る田辺さんに、「後世に残る芸術」と胸をはる寂聴さんなら何て言うだろう。

実は私、田辺聖子さんのファンである。
古典に興味を持ったのは、学校の先生ではなく田辺聖子さんのおかげだし、彼女の文章のテンポが、私には大変心地よい。
音のような歯切れのいい文章と、大阪人的なツッコミが好き。
それもそのはずで田辺さん「読む落語」を目指して書いているそうだ。芸術を振りかざす無粋さに比べたら、「読む落語」とは何だか粋で品がある。
こういう粋が上方文化なのだろうか? 知らんけど。

    ◆意地悪を書いた指さき蚊にさされ


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2010年06月22日

熱帯のベティさん

少し前に、『悲しき熱帯』を読んだ。
人類学者のレヴィ=ストロースが1935年にブラジルをフィールドワークした記録で、先住民であるインディオたちの生活(未開社会)が豊かな表現力で描かれている名著である。と、いうのは、聞きかじりで知っていたけれど、いざ読んでみると文体があまりに文学的で私には難解だった。
文章がやたらとわかりにくいし、舞台となるブラジルが、なかなか出てこないのにもうんざり。
やっと出てきたのは第3部のあたりで、ここからは確かに面白いし、読んでいると、異文化を遊泳しているような感傷的な気分になる。
でも、読者に対するそのアプローチの仕方は、学問としてはどうなのよ?と少し疑問に思った。
これは学術書ではなく、文学として読むものなのかな。いや、そんなしょうもない区別はいらんのか。

にしても『悲しき熱帯』というタイトルが魅力的。
どこか甘美で、切なくて、日本人の心の琴線に触れると思う。
和訳した川田順造氏は、他に適当な日本語に置き換えられなかったからやむをえず使った、と書いていたが、このタイトルにひかれて手にとった人も多いはずだ。
川田順造氏についても知りたくなったので、著書の一つ『ブラジルの記憶 〜悲しき熱帯は今〜』を読んでみた。
レヴィ=ストロースがブラジルを調査した50年後、雑誌『ブルータス』の取材で川田氏はブラジルを訪れている。
レヴィ=ストロースの弟子でもあった川田氏は、ブラジルの奥地で師の足跡を感じつつ原住民たちの暮らしを見つめるのだが、これが、面白かった。
なにより、表紙の写真が良い。ナンビクワラ族のベティさん、である。

ベティさんはいつも素っ裸で暮らしていて、森の中を颯爽と歩いて薪やバナナをとりにいく。
彼女、まるまると健康そうに太っていて若く見えるが、推定年齢は60歳以上なのでブラジル政府から養老年金を受けているそうだ。(インディオは未成年者や禁治産者扱いで、ブラジル市民とは認められていないがインディオ保護政策によって守られている側面もある)
「その臆することのない全裸の巨躯には、人間の最も根源的な尊厳、あらゆる小賢しい批判や教訓をしずかに拒む威信がある」と川田氏。
女性の裸が商品化されていない社会では、女は何歳でもこんなに堂々と自分をさらけ出すことができるのね、と感慨深い。

      ◆ 密林に裸の女と熟れバナナ

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2010年05月19日

窓から老婆

ベッドで村上春樹の短編を3つ読んでから寝たら、夢に死んだ人が出てきた。
祖母である。
祖母が枕元の窓をあけて入ってくるというずいぶん奇妙な夢で、あんまり変なので私は途中から「これは夢だ」と認識している。
私は祖母に問う。
「おばあちゃん、普通は四十九日で成仏するんやで。死んでからもう10年たってるのに、何やってんの?」
祖母は「あたしゃ普通より欲が深いから、このぐらいかかる」というような事を言ったので、孫は何となく納得した。
身内の欲深さを批判することは、その血を過剰に受け継いだ自分をいじめことになる。「そうか」と答えて黙るしかない。
「でも、もうさすがに体はいらんし、これでええわ。ほんならね」と言うと、祖母はまた、窓をまたいで闇の中に紛れていった。その時、体がすっと消えたように見えて私は安堵するのだが。

この非常事態を私は夢だと自覚しているので、「面白い話やな。忘れたらもったいないわ」と思ってベッドから起きあがり一生懸命にメモをした。
祖母がどうやって入ってきて、何を言ったか、そしてどこに去ったか。メモというよりは、作文である。今、ここに書いているような文章で、もっとツッコミも入れて感想もきっちり書いた。
翌朝、目覚めた時、書いたところまでが夢だったことに気付いてがっかりした。
記憶はすでに曖昧で、今となったらこの程度の事しか書けない。
私がこんな夢を見たのは、寝る前に読んだ小説の影響だろう。〈村上春樹の作品はほぼすべてが「幽霊」話である〉と内田樹さんも指摘していたように思う。


     ◆ 夜の窓 心見透かす 蜥蜴かな

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2010年05月13日

らりった猿とディープ・エコロジー

『持続可能性に向けての環境教育』という本を読んだ。
近頃「持続可能性」という言葉が巷にあふれているのは、滅亡していく人類が無理を承知であがきだしたということか? と思って図書館で手に取ったんである。

数人の学者さんがそれぞれの分野で執筆されていたが、私がいちばん面白いと思ったのは、ディープエコロジー思想について書かれた井上有一氏の章。
ディープエコロジーとは、ノルウェーの哲学者アルネ・ネスが1972年に提唱した概念らしい。
〈ホリスティックな人間観に基づく理解に立てば、利己主義と利他主義が相反するどころか、同一のものとなる〉というもので、平たく言えば、人間以外の存在も含めた他者をいつくしむ思想が、環境の改善につながっていくというもの。(たぶん)
井上氏の解釈によれば、これは「他人の身になって考えよう」と意識してするのではなく、さらに踏み込んだ領域なのだそうだ。

〈意識して努めなくても、相手を自己と同一化したなら、相手の境遇が文字どおり「わが事」になるのである。(「まるでわが事のようになる」のではない)〉

ううむ。
どう思われますか?
他者(自然)を自己に同一化できれば、他者(自然)の苦しみは自分の苦しみになる。
そうなってくると、カカオのプランテーションで奴隷のように働かされている子どもの苦しみも、自分の苦しみ。
なので「チョコレートはフェアトレードで買うねん」という行為も、「可哀想な子どもを救うため」ではなく「自分の苦しみを軽減するため」にするのだろうが、多くの人間が、そこまで意識を変容できるもんだろうか。
意識の変容が起これば、「地球を守る」ことは「自分を守る」ことになり、するすると環境問題が改善に向かっていくのだろうが…。
「このような能力は、人間の成長とともに身につくもの」とネスは説いているらしい。しかし私は、人類全体にさほどの「成長」が期待できるのか疑問に思う。

で、次。
5年ぶりぐらいにテレンス・マッケナ(アメリカの植物学者)の『神々の糧(ドラッグ)』という本を再読してみた。
マッケナは「初期人類の食物に含まれていた突然変異を起こさせる向精神性科学化合物が、脳の情報処理能力の急速な再編成に直接影響を与えた」と主張している。幻覚誘発性植物の作用によって、人間の脳は突然大型化した。なので我々の先祖はドラッグで酔った猿であり、霊長類から人類が出現するのに、幻覚誘発性植物とマジックマッシュルームが多大なる貢献をしたそうだ。

マッケナは言う。
〈現在のわれわれの世界の危機は、歴史上これまでにない根深さを持ったものである。したがって、その解決策はもっと思い切ったものでなければならない〉
彼によると、人類の危機は、現代文明が幻覚誘発性植物を媒介とした異界との接触を断ったことに起因しているとか。
なので、幻覚誘発性植物を使ったシャーマニズムの再生が必要であり、かつて、シャーマンたちが異界とつながって感じたエクスタシーを、我々も体感することでパラダイムをシフトさせねば…とおっしゃる。
読んでいて、それは、そうかもと思った。

このパラダイムシフトこそが、他者(自然)を自己に同一化する能力を開発し、人間をディープエコロジー思想に導くのかもなと、遅まきながら感じた次第。
「このような能力は、人間の成長とともに身につくもの」なんて私は思えないが、ある種の植物を用いれば可能だろう。
千年以上昔に、他者や自然と自己を同一化できていたディープエコロジストのブッダや空海も、植物を案内役として異界を幻視していたはずである。
密教では護摩を炊く時に、幻覚誘発性植物を火にくべて恍惚状態になってたというし、曼荼羅なんてもうね、そのまんま。
ちなみに私は高野山の壇上伽藍に行くと、空海のサイケデリック・ロックな気合いを感じて、少々ナチュラル・ハイになる。

『神々の糧(ドラッグ)』のあとがきに、訳者がこう書いていた。

〈日本の古代仏教に対する大麻文化の影響の何よりも明確な刻印は、十一面観音や千手観音、不空羂索観音、阿修羅などに見られる。いわゆる”八面六臂”的密教系仏教は、もとをたどればインドの仏教やヒンズー教において、大麻がもたらす宗教的法悦の幻視の中にあらわれた神仏のイメージの定着に他ならなかったといえる。〉

古代仏教だけでなく、幻覚剤は世界中の宗教で普遍的に使われてきた。
今、宗教が聖なる植物を取り戻し、健全な方向に再生すれば、地球はどう変化するんだろうと考えてしまった。あまりに革命的で、想像つかんが。

「人間が意識の変容に心ひかれるのは自然な傾向」だとマッケナは言う。
もしかして、その傾向が強い人は、らりった猿の血を濃く受け継いでいるのかもしれない。
私も10年近く前、アヤワスカというアマゾンの植物を使って幻覚を見る、という体験を何度かしたことがある。
アヤワスカはLSDの50倍効くとも100倍効くとも言われる強力な幻覚誘発性植物だ。
京都の寺院で開かれたワークショップに参加したのだが、中には僧侶たちも数人いた。
あの時見た、あり得ない色彩やあり得ないビジョンを、なぜか近ごろよく思い出す。
私の中に潜む無意識の領域から「五感だけを信じてはダメ」と警告がなされているのだと、思うことにしよう。


     ◆ 空海にロック魂あり、と見た。密教 曼荼羅 炸裂の秘技




  ーーーーーーーーーーーー
●『持続可能性に向けての環境教育』今村光章 編著 2005年 昭和堂
●『神々の糧(ドラッグ)』テレンス・マッケナ著 1993年 第三書館

posted by きたうらまさこ at 14:47| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月13日

余呉湖の伝説

実は先日、京都に泊まろうと思ったのには理由があった。
ちょうど3年前、大津の三橋節子美術館に行ったんだが、その時、絵画の中にみた神秘的な湖がずっと気になっていたのだ。
で、せっかくだから足をのばして、翌日行ってみようかなと。

湖の名は余呉(よご)湖と言って、滋賀県の最北端に位置する。京都から高速で1時間半ぐらいかかっただろうか。
名神から北陸道に入って米原を超えると、もうほとんど福井。高速をおりて田舎道をしばらく走ると、三方を山に囲まれたこぢんまりした湖があらわれた。
周囲の山並や木々を映した湖面、その上を水鳥が連なって滑っている様子はまさに鏡湖(余呉湖の別名)で、桜はまだ少し早かったけれど、黄色い菜の花が湖をところどころに縁取っている。あたりはしんと静まって人の気配もなく、鳥のさえずりしか聞こえない。対岸に見える小さな集落も、昔話の絵本のようでリアルにあるとは信じがたい。
期待していた以上にファンタジ〜。

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湖畔のベンチでおにぎりを食べ、空想やら妄想やらを楽しんだあと(老後の事も少し考えたりした)、再び車に乗り込んでゆっくりと湖を一周した。
途中、何箇所かに案内板があるのだが、読めばこのあたりは安土桃山時代の合戦の舞台であったらしい。
柴田勝家と羽柴秀吉は余呉湖をはさんで南北で睨み合っていたのだが、勝家の奇襲攻撃で闘いがはじまって「湖が血で赤く染まった」なんていうエピソードが記されていた。
この手の歴史はよくわからないので、ご冥福を祈って立ち去る。

次に見つけたのは、湖のほとりに祀られた目玉石だ。
ここには次のような話が残っていた。

桐畑太夫という男が集落に都落ちしてきた。娘が一人生まれて菊石姫と名付けられたが、7歳ぐらいになると、全身に蛇の模様が浮き出てきた。そのため家に置いておけず、離れた場所に小屋を建てて隠しておいた。食事を運ぶのは乳母である。
菊石姫が17歳になったころ、日照りが続いて作物も枯れはじめた。菊石姫は「人々を救うため、私が雨を呼びましょう」と湖に身を投げた。その姿はたちまち龍になり、雷鳴が轟いたかと思うと大粒の雨が降り始めた。龍は片方の目玉をぬき取り、乳母に与えて湖の底に消えていった。その目玉には霊力があり、なめると流行り病がなおったそうだ。

後日談もある。

噂を聞いたお上が「目玉を差し出せ」と言ってきた。しかも「二つ」と。
困った乳母が湖のほとりで菊石姫を呼ぶと、姫はもう片方の目玉を取り出して岸に向かってほうり投げた。そして石を枕にして痛みがひくのを待ってから、こう言った。「目が見えなくなって、これでは時がわかりません。湖の四方に堂を建て、鐘をついて時を知らせてほしい」。
そして「こんな醜い姿になったのだから、もう二度と呼び出さないで。私に会いたくなったらこの石を見てください」と告げると湖の底に消えてしまったという。

なんだか…。

「なんだか、あやしい感じ」と思いながら私はその石のまわりをぐるっとまわった。そもそも桐畑太夫という人は土地の者ではない。集落の人たちから見たら異人。この伝説は、雨乞いのための人身御供、生け贄として捧げられた娘がいたことが起源かも。

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車に戻ってしばらく走ると集落があり、余呉湖の北岸に出ると一本の大きな柳の樹があった。

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その昔、天女が空から降りて来て、脱いだ羽衣を柳の枝にかけて水浴びをしていた。土地の男がその姿に魅了されて、そっと近寄っていって羽衣を隠した。羽衣がないと帰れないので天女が途方に暮れていると「私の家にある着物を差し上げましょう」と言って男は彼女を家に連れて帰る。
ほどなく二人は夫婦となって子どもももうけるが、ある時、天女は夫がこっそり隠していた羽衣を見つけてしまう。
ゆえに夫も子どもも放置して天に帰っていった。

という、よく聞くストーリー。
夫のやった事があまりに小さいので、一気に嫌気がさしたとも考えられる。
伝説では「涙ながらに帰っていった」ということになっているが、子どもへの未練だろうか。
それでも羽衣を「見なかったこと」にはできなかった気持ちもわかる。

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両目を失った姫は湖底に沈み、羽衣を取り戻した天女は宙へ消えた。

そういえば、余呉湖の伝説を描いた三橋節子さんは死ぬ間際、幼い子どもたちに宛てた最後の手紙に「さよなら△またきて□ バイバイ」と書いていた。泣く。

     ◆ 余呉の湖(うみ)消えた天女を知る柳




posted by きたうらまさこ at 18:48| 旅のおはなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月07日

春のKyoto

名古屋から帰省していた娘を乗せて京都へドライブ。
娘のカレシが京都に住んでいて、帰り道に会いに行くというので送っていったのだ。(彼らは遠距離恋愛中)
彼が住む古い学生アパートの前に立ち、にこにこ顔で私に手をふる娘…。
なんていうか、ユニークな女の子だわと思いつつ私もバイバイと手をふる。

一人になったので、さて、どこに行くかなと考えた。
京都は今、桜が満開で観光客も多い。街はえらく混んでいそうなので大原に向かって車を走らせた。
この選択は大正解。
到着したのは夕方で、観光客もぼつぼつ帰りはじめていてひっそり。
暮れてゆく山里の色が美しくてたまらない。

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「大原温泉」の看板にひかれて、寂光院がある集落に入っていった。
細い道をくねくねと走っていくと民宿が数軒あり、温泉だけでも利用できるとのこと。
うれしい。

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なかなか風情のある民宿で、お風呂もしっとりした雰囲気だ。
露天風呂もあって、山ぎわには釜風呂まである。
お客さんが誰もいなくて、私ひとりで釜風呂につかっていると、ゴーンと寂光院の鐘がなった。
尼さんがついているんだろうか。
平家物語って「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり」だったっけ??と思いつつ頭にタオルを乗せてぼけっとしている。
「あんた、気楽でケッコやな」といつもの母の嫌味が聞こえてきそうだが、結構か結構でないかは本人にしかわからない。
「ケッコなのはたぶんあなたの孫であり、私ではない」と、私は思う。まぁそもそも変な遺伝子だし。

しばらくすると、初老の女性グループやら、アジア系外国人女性のグループやらがどやどやと入ってきた。
「どこから来はったん?」とおばちゃんが聞くと「タイワン、タイワン!」と若い女の子たちが答えた。「うちらも台湾行ったことあるで」とおばちゃんは身振り手振りで異文化交流。
国際色豊かでハイカラな釜風呂になったので、会話に入れない私はそそくさと退場。

市街地に戻って、せっかくなので鴨川沿いの桜を眺めた。さすがに妖艶だ。鳥たちも桜にやられて狂ったように飛びまわっていた。
それから京大近くにあるインドカレーの店に行った。
京都に来るとよく立ち寄るのだが、この日は「たけのこキーマカレー」というのがあったので、それを玄米ごはんで注文した。
隣の席には欧米人の男女3人。彼らは旅行者ではなくて、京都に暮らしている常連客みたいだ。脳みその表面を滑っていく英会話を聞き流しながらカレーを食べていると、しみじみと京都っぽい。

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ああ、もう帰りたくない!
と、突然そんな気分になっても大丈夫。京都には安いゲストハウスが色々あるし、気持ちに余裕がある時ならビジネスホテルより味わい深い。
その夜、私が泊まったのは小世界旅社というゲストハウスで、ドミトリーなら一泊2000円。

ここ。↓
http://www.k3.dion.ne.jp/~swg/

もともとは普通の町家だし、内部は意外におしゃれな大正ロマン風だ。
2段ベットにもぐりこんで、枕もとのライトをつけて太宰治を読んでいると、作品と部屋が不気味なぐらいにしっくりくるので激しく集中できた。
でもしばらくしたら、ここにもアジア系外国人(中国かも?)の女の子たちがやってきた。
隣室から聞こえるおしゃべりが少しうるさかったけれど、可愛らしい声なので慣れれば心地よいし、久しぶりにゲストハウスに泊まったのでそういうのも懐かしくて良かった。

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  ◆ 遺伝子の二重螺旋の形して群れ飛ぶ鳥を見る夕まぐれ



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2010年01月28日

曽爾村のおさびし山

あれこれ煮詰まって悶々としてきたら、とりあえず一人で車に乗って出かける事にしている。車という個室の中で、窓から景色を眺めながらぼんやり運転していることが大好きだ。
「移動するひきこもり」と、思っていただければ…。

向かったのは、やっぱり奈良。
京奈和道路が一部開通してアクセスが良くなったこともあり、近頃、奈良方面によく足が向く。奈良県には天川村、川上村、月ヶ瀬村、山添村など、まだまだ「村」が残っていて面白そうだし。

道路標識に導かれながら宇陀郡の山間部を走行していくと、曽爾(そに)村に到着した。北は三重県の名張市、東は津市に隣接する山間の小さな盆地。
夏は涼しいが、冬はたいへん寒い地域らしく、その日もところどころで道が凍っていた。

この村を目指したのは、『目で見る大和路』という写真集に、昭和21年の魅力的な風景が載っていたから。変な形の山にもココロひかれたので、実物を見たかったんである。鎧岳(よろいだけ)といって、隣接する兜(かぶと)岳、屏風岩と共に国の天然記念物に指定されているそうだ。

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まるでムーミン谷のおさびし山…。

近くには国見山という山もあるのだが、頂上からの展望は素晴らしく(私は見ていない)、かの神武天皇も国見をしたという。
土蜘蛛の八十梟師(やそたける)は、そこで神武に殺されてるんだけど…。
まぁそんな話は、さておき。
ちょうどお腹が空いてきたので、道路沿いの手打ち蕎麦屋さんに立ち寄った。
店主が言うには、古くから酒や日用品を扱っていた商店だったそうだ。
素朴な趣きのある座敷に通してもらって、八十梟師に思いを馳せながら、しんみりと蕎麦を食す。
座敷からの眺めがまた、素晴らしかった。

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2009年12月14日

天川村の円空仏

続いて、天川村へ。
下市(しもいち)から車でうねうねと山道を上っていくと、2000メートル近い山々に囲まれた谷あいの集落に到着した。
村役場のあたりが中心地であり、村内で唯一(たしか)の信号機と数軒の店があるが、そこを過ぎると「天の川」をはさんでポツポツと民家があるだけだ。

注意深く走っていくと、前方に「天河大弁財天社」の案内が見えてきた。
ここはけっこう有名な神社で、芸能人が参拝にやってきたり、敏感な人々が「何かを感じる」特別な場所らしい。
私にとっては何も感じない所なので、神社をさくっとスルーして、一本道を行け行けどんどん。目当ては栃尾観音堂である。

5分ぐらいで栃尾の里に着いた。
雑貨屋さんの前の橋を渡り、集落の細道へとハンドルをきる。
山と川の間の狭い土地に数軒の家々と畑があり、一番奥の山際に小さな観音堂が見えた。

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車をおりると、キンと冷えた空気。
靴をぬぎ、畳三畳ほどの観音堂に入ると、そこには四体の円空仏があり摩訶不思議な笑みを浮かべていた。
うっ、やっぱり好きかも。

近所のオバちゃんみたいな顔の大弁財天女像や、胎内仏が発見された聖観音菩薩像、素朴すぎる金剛童子像などそれぞれに味があるが、私が見とれてしまうのは円空オリジナルの、髪の毛が逆立った護法神像。円空は数多くの護法神像を残しているが、栃尾観音堂に祀られているのは第一作目であるという。
彼はこの地で精霊を見たのかもしれん。

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円空は全国をさすらった孤高の僧。
彼が天川にやってきたのは42歳(1673年)の時だという。
観音堂にこもって彫ったのだろうが、円空の名はこの集落には残っていなかった。
これらの神仏像は、弘法大師が一夜にして彫り上げたと伝えられ、円空の作と判明する昭和47年までは、村人たちも川でじゃぶじゃぶ洗っていたらしい。
今ではガラス扉に鍵こそかかってはいるものの、観音堂の中には誰でも入れるようになっている。あたりはしんとして人影もない。
円空仏はただ、あるべきようにそこにあるだけ。


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2009年10月14日

● 老人数珠つなぎ

なぜか私のまわりには老人が多くて、年寄りてんこ盛り状態なんだが、今日もまた新たな出会いがあった。

必要があって市内のあちこちを撮影にまわっていたんだが、夕方近くに和歌浦の観海閣(海上の楼閣)を撮っていたら向こうからジャージ姿の初老の男性が手招きをしているのが見えた。「うわっ、また爺ちゃんだ…」と思いながら近づいていって「はぃ?」と聞くと、「ここから撮る方がよろしいで」とおっしゃる。散歩中の近所の方、のようだ。

堤防の切れ目には人が一人だけ入れるスペースがあり、実は私もそのポイントがいいだろうと気付いていたのだが、その方が陣取っていたから近寄りにくかったんである。
場所をあけてくれたので御礼を言ってそこに立つと、たしかにいいアングル。
「ほんと、いいですね♪」とちょっとオーバーに喜んでみたりして。
すると「この堤防の上に立ったらもっとええで」とすすめるので、上らなしゃーない事になってよじ上る。怖いんですけど。

レンズを覗いて「あ、ほんとですね〜」とさらに喜ぶと、
「縦も1枚撮っときなぁ。水面に映る影がええんや」
「あ、はい。きれいですね〜」

と、撮影したのがコレ。横の方がええやん。

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爺ちゃんは、カメラが趣味で自分のブログも持っているらしい。
「見てよ」と言ってくれたので、URLを聞かないわけにもいかなくなってメモとボールペンを渡した。(まだ見てない)
私の名前も聞かれたので一応、名乗ると「またカメラ談義でもしましょう」とにこにこ顔。
「はい、ありがとうございます〜」と笑顔で答えつつ「私カメラ嫌いなんやけど。仕方なく撮ってるだけなんやけど」と腹の底でほざく。

ちょっと面白い出会いだったし、おかげさまでまぁまぁな写真が撮れて良かった。
毎回こんなタイミングで指導者が現れたら、撮影も楽なんだけどな。

ところで…、
うっかりしていた。
今年の「阿尾のクエ祭り」は何日だっけ?と思って検索したら、終わってた。
1年って早い。
このペースで時が過ぎると、私もあっという間に老人になることだろう。

ちなみに「二川の子ども歌舞伎」は10月24日の土曜日の夜らしい。
二川の大旦那がメールをくれたので、行くつもり。
今年は一人で行くことになると思うし、ついでに温泉にでも入って楽しんでこよう。

昨年の記事はこちらです。
http://pasaran.seesaa.net/article/108705462.html


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2009年06月30日

● kumanoスピリチュアル

 熊野における信仰の起源は、はるか古代に遡る。原始、縄文の民は自然の中に精霊を感じて畏敬した。たとえばゴトビキ岩。現在も神倉神社のご神体として祀られる巨岩だが、岩陰からは幾十にも砕かれた銅鐸の破片が発見されている。
 二月六日の夜、ここを舞台に繰り広げられる御燈祭りでは、およそ二千人の男たちが腹に荒縄を巻いて白装束姿で結集する。松明を手に一気に駆け下りる勇壮な祭典は、人類が初めて火を得た喜び、火への畏れと感謝の心を今に伝えているという。
 あるいは那智の滝。天空から落ちる雨が川をつくり、やがて大きな滝となって絶え間ない瀑音を轟かす。滝壺に満々とたたえられた聖なる水は、多くの生命を育みながら流れ、紺青の太平洋へと注ぎ込む。その崇高なダイナミズムは、古代人の魂をどれほど揺さぶったことだろう。
 彼らは滝の中に、昇天してゆく竜の姿を見て崇めた。水は生命の源であり、森を生かし、人を生かす。あらゆる生物は、連鎖する自然の中でバランスを取りながら共存していることを、しなやかに森を駆けていた彼らは知っていたに違いない。

三体の月が出た夜

 熊野本宮大社の旧社地、大斎原(おおゆのはら)にも不思議な話が残っている。 
 平安時代に記された『熊野権現垂迹縁起』によると、熊野権現は中国の天台山から飛来し、九州から四国、淡路などを経て熊野の神倉山に降臨。その後、三体の月形となり大斎原のイチイの木に現れたとか。 
 見つけたのは大イノシシを追いかけて来た猟師。ようやく仕留めた獲物の肉を食べて夜を明かしていた時、ふと仰いだ木の枝に三つの月が掛かるのを見た。
「どうして月が虚空を離れて木の枝にいらっしゃるのですか」
「我は熊野三所権現である。一枚の月は証誠大菩薩と申す。今二枚の月は両
所権現と申す」
これを聞いた猟師が祠を建てて祀ったのが、熊野本宮大社の始まりとされている。

 大斎原から西に約二十キロ。熊野古道中辺路に沿った集落にも似たような伝説がある。
 ある時、一人の修験者が山里に下りてきて「十一月二三日の月が出た時、わしは神変不可思議な法力を得た。村の衆もその日に月の出を拝むがよい。三体の月が現われるだろう」と告げて立ち去った。
 翌年の十一月二三日、数人の村人たちが疑いながらも月待ちをしていると、修験者の言った通り三つの月が……。

熊楠の神秘体験

 時は流れて明治時代。植物採集のために深い森の中をさまよっていた南方熊楠も、いくつかミステリアスな体験をしたようだ。
 大雲取の山中でヒダル神に取り憑かれた熊楠は「精神が朦朧として仰向けに倒れたが、背負っていた植物採集胴乱が枕となったので幸い頭を打たずにすんだ」と、その状況を書き残している。また、那智山麓の宿では「夜中に自分の頭が抜け出てあたりを飛び回った」とも。

 森羅万象の神秘に注目していた熊楠も、動植物や山や川、石の中に精霊を見る感性を持っていた。だがそれは決して特別なことではない。日本人の心には、古代から連綿と続く自然への畏敬の念がある。だからこそ、おびただしい数の神々が共に存在する多神教文化へと発展したのだろう。そして自然と呼応する感性は、現代人の心の底流にも受け継がれているはずだ。熊野は今、それを確かめるために訪れる聖地ではないだろうか。

     
             
posted by きたうらまさこ at 10:34| 紀伊半島 書き歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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