2012年11月25日

縄文世界

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少し前のこと、友人と大阪府立弥生文化博物館に行ってきた。
目当ては秋季特別展「縄文の世界像 八ヶ岳山麓の恵み」
この博物館は環濠集落である池上曽根遺跡の地に建てられている。常設展示のテーマはもちろん弥生時代。
はやる気持ちをぐっと押さえて、まずは弥生時代の展示室をぐるっとみてまわった。

「弥生式土器って、機能的すぎてつまらないね」
「まぁ今でいうなら百均の食器みたいなもんでしょか」

などと言い合って、いそいそと縄文エリアへ。

く……言葉も出ない。
どうなの、この想像力!縄文人って、過剰。
土器の把手がヘビの頭だったり(ペニスをあらわしているとか)、かえると人間が融合してたり、目玉がひとつだけ土器にくっついてたり…。どれだけ自由な世界観、死生観の中で、生きていたのだろうかと思う。

私が最も心を奪われたのが、「蛇体頭髪土偶」なのだが、こんなのナマで見たら魂がぬけていきそうになる。
のっぺりした顔につり上がった目、頭にはとぐろを巻いた蛇、左目からは涙、背中には星の文様。
とある学者さんの解釈によると、顔は月をあらわし、涙は不死の水、顔は水をためる容器でもあり、頭の蛇は月の水を容器から飲んでいる。左目だけに涙が流れて顔が左右非対称なのは、月の満ち欠けをあらわし、死と再生を意味する。要するにこれは月の女神、であるという。

縄文人に聞いた?と思うが、こういうのは文学的感性の領域なのかもしれない。
そういえば、これまで私がかいま見た数名の考古学者さんは、ちょっと浮き世離れした芸術家タイプの魅力的な方たちだった。アーティスティックな感性が古代と共鳴して、考古学の道に進まれたのかな、と思う。

昨日の午後、本棚を整理していたら、藤森栄一さんの『かもしかみち』が出てきた。あらっ、と思って再読。
藤森栄一さんは縄文農耕論を提唱した在野の考古学者で、特別展の会場でも、大きなパネル写真と共に紹介されていた。アニメ「となりのトトロ」で、サツキとメイのパパ(考古学者)のモデルになった、とも言われる。

『かもしかみち』の文章は、それはそれは味わい深いもので、私は何度もはっとして、そしてため息をつく。
さすが、まぼろしの名著。
書き出しのエピソードもあまりに面白すぎて、夢に出てきそうだ。とてもいい本。

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posted by きたうらまさこ at 17:01 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月04日

東吉野村・最後の日本狼

数日前の夕刻、奈良の山間部を車で走っていた。東吉野村、鷲家の木津(こつ)峠。道路脇には歌人、前登志夫さんの歌碑があった。横目でちらっと見た瞬間、心の深いところにあるフタが、うっかりあいてしまった。また…前さんを思うといつもこうだ。(お会いしたことはないが)

高見川に沿って細い道をゆく。日没間近の山里には霧が立ちこめて、うすい紫色にけむっていた。ふと、日本狼のブロンズ像が現れた。何度も通っているから、このへんだったかなと思いながら走っていたのだけれど…。

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車をおりてまじまじと見る。意外と小さいものなのね。
明治38年、ここで捕らえられた若雄が、最後の日本狼となった。死体は腐敗が進んでいたらしいが、8円50銭でイギリス人が買っていったそうだ。

傍らの石には、三村純也氏の俳句が刻まれていた。

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狼は亡び 木霊は存ふる
おおかみはほろび、こだまはながらふる。
狼の消えた森で、木霊はながらふることができるのだろうか。
木霊。

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冬の夜をねむらず歩むけものをり雪うすく敷ける星空の下  前登志夫  
                            (歌集『野生の聲』より)




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2012年11月01日

龍神村フィールドワーク6 (出会い淵のゴウラ)



出会い淵のゴウラ
                              文・小谷博史さん

 この話はのう、大熊にずいぶん古くから伝わる話じゃ。この大熊の前には、日高川の本流と高野龍神スカイライン沿いに流れる古河谷が出会う所に、出合いの淵と言うて、青黒い水がとろりとろりと渦巻くそれはそれは大きな淵があった。 
 その上に架けられた欄干橋から淵をのぞくと、知らず知らずに淵の中へ引き込まれていくような気になってくる気味の悪いほど深い淵じゃった。里の人々は魚を釣りに行っても、この淵だけは「くわばら、くわばら」と避けて通り、夏の熱い日でも決して出合いの淵では泳いではならんと、子供たちに厳しく言い聞かせておったそうじゃ。と言うのも、いつの頃からかこの淵には一匹のゴウラ(河童)が住み着いていたからじゃ。

 ---ゴウラ---、それは本当に不思議な姿をした生きものでのう。形は人間のようじゃが、頭のてっぺんには皿みたいなもんをかぶり、口は鳥のくちばしのようにとがり、目はまばたきもせんヘビの目みたいで、背中には細長い甲羅を背負って、体中からいつもぽたぽたと水をたらしておった。
 そして何よりもみんなをおそろしがらせている事は、ゴウラは人間はもちろん、生きものすべてのはらわた(内蔵)が大好物じゃったからじゃ。知らずに淵へ近づくけものや人間に、そろりそろりと近づいて淵へ引きづり込み、おぼれさせておいてから、尻の穴からはらわたを引き抜いて食ってしまうんじゃと。

 ゴウラが近づいて来ると、何とも言えん生臭いにおいが漂うてのう。川の水も水あめのようにねばりつくようになって、水の中から逃げ出そうにも体が思うように動かんようになってしまうんじゃ。
 里の者は、何とかしてゴウラを退治したいと思うて相談したこともあったが、何せ相手は水の中を住み家にして、めったに人に姿を見せんし、淵へ近づけばゴウラに取って食われるし、ええ知恵も出んままずうっと生活をしていたそうな。

 さて、この大熊の里の者の中に、治郎作(じろさく)という男がおった。治郎作は大変な働き者で、朝は早うから畑を耕し、夕方はかみさんが「おとう、ええかげんに夕めし食べようろよう」と呼ぶまで働きどうしじゃった。
 そのせいか、近ごろでは生活も少し楽になって、年とって力の弱くなってきた牛を、若い力のある牛に替えられるほどになっていたので、牛方に頼んでようやくりっぱな牛を手に入れたところじゃった。

 この牛がまた、たいがい大きな牛で他のどの牛よりも倍は力が強かったので、治郎作はこの年、誰よりも早く田起こしを終えることができたそうな。
 治郎作はたいそう喜んで、田んぼ仕事が終わって牛を休ませた日に、出合いの淵の少し下流にある「ゆのくら」という淵の尻へ「ここならゴウラの心配はいらんじゃろう」と言いながら牛を追い込んだ。
 そして「よう働いてくれたのう、お前のおかげでこがいに早う田んぼもすんだ。ほんまにおおきに。今日は体を洗うてやるさかい、ゆっくり休めよ」と言って、牛の頭から足の先までごしごしとこすって洗っておった。牛も気持ちよさそうに目を細めて、時々長いしっぽでぴしりぴしりとアブを追っておった。

 そのうち、何やら生臭い臭いがするような気がして、治郎作が鼻をひくひくさせてあたりを見回すと、何と、川の水までとろりと水あめのようになってきたんじゃと。
 驚いた事にゴウラのやつが、その水の中をすいすいとくぐって来て、やっとの事で水の中からはい出した治郎作には目もくれず「ガバッー!」と姿を現すと大きな牛のしっぽにしがみついて、水の中へ引き込みにかかったそうじゃ。

 牛は驚いて「もぉーっ、もぉーっ」とあばれだし、水からあがろうともがいたが、ゴウラも必死でひっぱるし、水はねとりねとりと粘りついて体が思うように動けん。
 そのうちじりじりと深みの方へ、牛が引っぱり込まれだした。治郎作は岸でぶるぶるふるえておったが、このままでは大事な牛がやられてしまうと気がついて、牛の追い綱を取ると、力いっぱい引っぱった。並の牛ならとっくにはらわたを抜かれる所だが、もともと力が強い。治郎作に力づけられた牛はゴウラにしがみつかれたまま、一気にどどどーっと岸へ飛び上がったそうじゃ。

 さて今度はゴウラの方が驚いた。おかへ上がってしもうたら、水の中の十分の一の力も出んらしく、牛にふり落とされんように、しっぽにしがみついておるだけで精一杯。あれよあれよというまに大熊平まで引こずり上げられてしもうたそうな。
 牛がみょうな物を引っぱって、どかどかと走ってきたので、皆は何事かとわいわい寄り集まって牛を取り押さえておどろいたんじゃ。あれほど恐れていたゴウラが、牛のしっぽにしがみついて口をぱくぱくして苦しがっておるではないか。
 「今じゃ、今じゃ」と手に手に棒やくわを持ってやって来ると、「ようも今までわしらの仲間や、わしらの牛を殺してくれたのう。今こそ恨みをはらしちゃるわい」と言うて、たたき殺そうとしたんじゃ。

 そこへ騒ぎを聞きつけたお寺の和尚がかけつけて来て、「やれ、待て待て。殺生はいかん。皆ちょっとだけ待ってくれ」と言うて皆を止めたんじゃ。
 「皆の衆、腹の立つのはようわかる。けどこいつを殺しても、死んだ者はかえって来やせん。わしにええ考えがある。まぁまかせてみい」と言うと、皆は「坊さん、どがいにするおつもりじゃ」と坊さんの方へ寄ってきた。
 坊さんはゴウラの前に行くと、「これゴウラ、よう聞け。おまえは今まで何人もの人々や何頭もの牛を殺してきた。ここで皆に叩き殺されても文句は言えんぞ。じゃが、お前がほんまに悪かったと思うて、わしの言う事を聞くなら命だけは助けてやろう。どうじゃ」と聞いたんじゃと。

 ゴウラはおかへ引っぱり上げられて力は出らんし、大勢に囲まれて今にも頭の皿をたたき割られそうで恐ろしゅうて、わなわなふるえておったので、一も二もなく「お坊さま、何でも言う通りにします。どうか命だけはお助けください」と、水かきのついた両手を合わせてぺこぺこと頭を地面にこすりつけたそうじゃ。
 「よし、そんじゃお前は、これから夏の間中、大熊平にある田んぼという田んぼに入って草取りをせえ。そうすれば命を助けてやろう」と言うと、ゴウラは「はいはい、何でもいたします。とにかく今は頭の皿が乾いて苦しくてたまりません。どうかお願いですから、皿に水をかけてください」と頼んだんじゃと。
 坊さんは水を汲んでこさせると、ゴウラの頭にざぶざぶとかけてやったそうな。ゴウラは元気を取り戻すと、坊さんと里の皆に礼を言うて急いでこしらえたオリの中へ入って行ったそうな。

 明くる日からゴウラは、牛のように腰へ縄をつけられて、棒を持った男に見張られながら田んぼの中で草取りをさせられたんじゃ。七日たち、十日たちするうちに、下の出合いの淵が恋しくていてもたってもおれんようになってきてのぉ。それに毎日明けても暮れても、泣き出したいほどつらい仕事が待っとる。
 ようやく治郎作の田んぼが終わって清吉の田んぼへ行き、そこもやっとこさ終わって来てみると、もう治郎作の田んぼには草が青々とはえている。「こりゃたまらん」と、とうとうゴウラはおいおい泣き出してしもうたんじゃと。

 皆もゴウラがあんまり悲しそうに泣くもんじゃから、少しばかり可哀想になり、寺へ行って和尚にどうしたもんかと相談したそうじゃ。
 ほいたら和尚はゴウラに言ったんじゃ。「もう二度と悪さをせんと約束できるか。それができれば放してやろう」。ゴウラは「二度と悪い事は致しません。これからは反対に、この川で人々がおぼれたり、流されたりしないように私がお守りしてゆきましょう。この約束は、この寺の庭に松の木が生えるまで、決してやぶりません」と、里の人々とも固く約束をして、それを石に刻んで寺の手水鉢(ちょうずばち)の下へ埋めたそうな。

 それからみんなに連れられて、出合いの淵に放してもろうた。ゴウラは久しぶりになつかしい住み家へもどれたので、その喜びようはたとえようもなかったそうじゃ。何べんも淵の上へ頭を出しては、みんなの方に手を合わせていたが、やがて水の中へ消えると二度と浮かんではこんかったそうじゃ。 
 それからは別に、出合いの淵の回りで、人やけものがやられたという話も出んようになってのう。みんな、安心したそうじゃ。
 そしてゴウラとの約束が、いつまでも破られないように、この寺の庭には、小さい松と言えども、決して植えてはならんと言う言い伝えが残ったそうじゃ。

 そやさかい、今でも龍蔵寺の庭には松の木は見とうても、ないんじゃよ。これでわしの話も終わりじゃ。さぁ、もうみな寝ろらよ。

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【メモ】

●龍蔵寺の開基は応永31(1424)年で、龍神一族の菩提所として建立された。ここの和尚さんは、狼の話、佐治兵衛と山の神、ゴウラの話にやたらと出てきて大活躍。村誌には歴代住職の名と亡くなった年月が記されているが、1440年に最初の住職が亡くなり、その後1967年まで15人。

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●これが噂の手水鉢。後ろに木製の看板があり、ゴウラ伝説が書かれていたのだと思うが、朽ちて読み取ることがでない。無念なり。

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posted by きたうらまさこ at 23:48 | TrackBack(0) | 紀州の民話・伝説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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