2014年05月02日

ココラボ出版のウェブサイト

ココラボ出版のウェブサイトができました。

http://cocolabo-book.com/

今後はこちらで更新をしていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

                
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2013年12月05日

みちとおとのウェブサイト

みちとおと(道と音)のウェブサイトを公開しました。
熊野古道・中辺路を紹介するサウンドスケープ・プロジェクトです!

http://www.michi-oto.com/

どうぞよろしくお願いいたします。
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2012年11月25日

縄文世界

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少し前のこと、友人と大阪府立弥生文化博物館に行ってきた。
目当ては秋季特別展「縄文の世界像 八ヶ岳山麓の恵み」
この博物館は環濠集落である池上曽根遺跡の地に建てられている。常設展示のテーマはもちろん弥生時代。
はやる気持ちをぐっと押さえて、まずは弥生時代の展示室をぐるっとみてまわった。

「弥生式土器って、機能的すぎてつまらないね」
「まぁ今でいうなら百均の食器みたいなもんでしょか」

などと言い合って、いそいそと縄文エリアへ。

く……言葉も出ない。
どうなの、この想像力!縄文人って、過剰。
土器の把手がヘビの頭だったり(ペニスをあらわしているとか)、かえると人間が融合してたり、目玉がひとつだけ土器にくっついてたり…。どれだけ自由な世界観、死生観の中で、生きていたのだろうかと思う。

私が最も心を奪われたのが、「蛇体頭髪土偶」なのだが、こんなのナマで見たら魂がぬけていきそうになる。
のっぺりした顔につり上がった目、頭にはとぐろを巻いた蛇、左目からは涙、背中には星の文様。
とある学者さんの解釈によると、顔は月をあらわし、涙は不死の水、顔は水をためる容器でもあり、頭の蛇は月の水を容器から飲んでいる。左目だけに涙が流れて顔が左右非対称なのは、月の満ち欠けをあらわし、死と再生を意味する。要するにこれは月の女神、であるという。

縄文人に聞いた?と思うが、こういうのは文学的感性の領域なのかもしれない。
そういえば、これまで私がかいま見た数名の考古学者さんは、ちょっと浮き世離れした芸術家タイプの魅力的な方たちだった。アーティスティックな感性が古代と共鳴して、考古学の道に進まれたのかな、と思う。

昨日の午後、本棚を整理していたら、藤森栄一さんの『かもしかみち』が出てきた。あらっ、と思って再読。
藤森栄一さんは縄文農耕論を提唱した在野の考古学者で、特別展の会場でも、大きなパネル写真と共に紹介されていた。アニメ「となりのトトロ」で、サツキとメイのパパ(考古学者)のモデルになった、とも言われる。

『かもしかみち』の文章は、それはそれは味わい深いもので、私は何度もはっとして、そしてため息をつく。
さすが、まぼろしの名著。
書き出しのエピソードもあまりに面白すぎて、夢に出てきそうだ。とてもいい本。

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2012年11月04日

東吉野村・最後の日本狼

数日前の夕刻、奈良の山間部を車で走っていた。東吉野村、鷲家の木津(こつ)峠。道路脇には歌人、前登志夫さんの歌碑があった。横目でちらっと見た瞬間、心の深いところにあるフタが、うっかりあいてしまった。また…前さんを思うといつもこうだ。(お会いしたことはないが)

高見川に沿って細い道をゆく。日没間近の山里には霧が立ちこめて、うすい紫色にけむっていた。ふと、日本狼のブロンズ像が現れた。何度も通っているから、このへんだったかなと思いながら走っていたのだけれど…。

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車をおりてまじまじと見る。意外と小さいものなのね。
明治38年、ここで捕らえられた若雄が、最後の日本狼となった。死体は腐敗が進んでいたらしいが、8円50銭でイギリス人が買っていったそうだ。

傍らの石には、三村純也氏の俳句が刻まれていた。

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狼は亡び 木霊は存ふる
おおかみはほろび、こだまはながらふる。
狼の消えた森で、木霊はながらふることができるのだろうか。
木霊。

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冬の夜をねむらず歩むけものをり雪うすく敷ける星空の下  前登志夫  
                            (歌集『野生の聲』より)




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2012年11月01日

龍神村フィールドワーク6 (出会い淵のゴウラ)



出会い淵のゴウラ
                              文・小谷博史さん

 この話はのう、大熊にずいぶん古くから伝わる話じゃ。この大熊の前には、日高川の本流と高野龍神スカイライン沿いに流れる古河谷が出会う所に、出合いの淵と言うて、青黒い水がとろりとろりと渦巻くそれはそれは大きな淵があった。 
 その上に架けられた欄干橋から淵をのぞくと、知らず知らずに淵の中へ引き込まれていくような気になってくる気味の悪いほど深い淵じゃった。里の人々は魚を釣りに行っても、この淵だけは「くわばら、くわばら」と避けて通り、夏の熱い日でも決して出合いの淵では泳いではならんと、子供たちに厳しく言い聞かせておったそうじゃ。と言うのも、いつの頃からかこの淵には一匹のゴウラ(河童)が住み着いていたからじゃ。

 ---ゴウラ---、それは本当に不思議な姿をした生きものでのう。形は人間のようじゃが、頭のてっぺんには皿みたいなもんをかぶり、口は鳥のくちばしのようにとがり、目はまばたきもせんヘビの目みたいで、背中には細長い甲羅を背負って、体中からいつもぽたぽたと水をたらしておった。
 そして何よりもみんなをおそろしがらせている事は、ゴウラは人間はもちろん、生きものすべてのはらわた(内蔵)が大好物じゃったからじゃ。知らずに淵へ近づくけものや人間に、そろりそろりと近づいて淵へ引きづり込み、おぼれさせておいてから、尻の穴からはらわたを引き抜いて食ってしまうんじゃと。

 ゴウラが近づいて来ると、何とも言えん生臭いにおいが漂うてのう。川の水も水あめのようにねばりつくようになって、水の中から逃げ出そうにも体が思うように動かんようになってしまうんじゃ。
 里の者は、何とかしてゴウラを退治したいと思うて相談したこともあったが、何せ相手は水の中を住み家にして、めったに人に姿を見せんし、淵へ近づけばゴウラに取って食われるし、ええ知恵も出んままずうっと生活をしていたそうな。

 さて、この大熊の里の者の中に、治郎作(じろさく)という男がおった。治郎作は大変な働き者で、朝は早うから畑を耕し、夕方はかみさんが「おとう、ええかげんに夕めし食べようろよう」と呼ぶまで働きどうしじゃった。
 そのせいか、近ごろでは生活も少し楽になって、年とって力の弱くなってきた牛を、若い力のある牛に替えられるほどになっていたので、牛方に頼んでようやくりっぱな牛を手に入れたところじゃった。

 この牛がまた、たいがい大きな牛で他のどの牛よりも倍は力が強かったので、治郎作はこの年、誰よりも早く田起こしを終えることができたそうな。
 治郎作はたいそう喜んで、田んぼ仕事が終わって牛を休ませた日に、出合いの淵の少し下流にある「ゆのくら」という淵の尻へ「ここならゴウラの心配はいらんじゃろう」と言いながら牛を追い込んだ。
 そして「よう働いてくれたのう、お前のおかげでこがいに早う田んぼもすんだ。ほんまにおおきに。今日は体を洗うてやるさかい、ゆっくり休めよ」と言って、牛の頭から足の先までごしごしとこすって洗っておった。牛も気持ちよさそうに目を細めて、時々長いしっぽでぴしりぴしりとアブを追っておった。

 そのうち、何やら生臭い臭いがするような気がして、治郎作が鼻をひくひくさせてあたりを見回すと、何と、川の水までとろりと水あめのようになってきたんじゃと。
 驚いた事にゴウラのやつが、その水の中をすいすいとくぐって来て、やっとの事で水の中からはい出した治郎作には目もくれず「ガバッー!」と姿を現すと大きな牛のしっぽにしがみついて、水の中へ引き込みにかかったそうじゃ。

 牛は驚いて「もぉーっ、もぉーっ」とあばれだし、水からあがろうともがいたが、ゴウラも必死でひっぱるし、水はねとりねとりと粘りついて体が思うように動けん。
 そのうちじりじりと深みの方へ、牛が引っぱり込まれだした。治郎作は岸でぶるぶるふるえておったが、このままでは大事な牛がやられてしまうと気がついて、牛の追い綱を取ると、力いっぱい引っぱった。並の牛ならとっくにはらわたを抜かれる所だが、もともと力が強い。治郎作に力づけられた牛はゴウラにしがみつかれたまま、一気にどどどーっと岸へ飛び上がったそうじゃ。

 さて今度はゴウラの方が驚いた。おかへ上がってしもうたら、水の中の十分の一の力も出んらしく、牛にふり落とされんように、しっぽにしがみついておるだけで精一杯。あれよあれよというまに大熊平まで引こずり上げられてしもうたそうな。
 牛がみょうな物を引っぱって、どかどかと走ってきたので、皆は何事かとわいわい寄り集まって牛を取り押さえておどろいたんじゃ。あれほど恐れていたゴウラが、牛のしっぽにしがみついて口をぱくぱくして苦しがっておるではないか。
 「今じゃ、今じゃ」と手に手に棒やくわを持ってやって来ると、「ようも今までわしらの仲間や、わしらの牛を殺してくれたのう。今こそ恨みをはらしちゃるわい」と言うて、たたき殺そうとしたんじゃ。

 そこへ騒ぎを聞きつけたお寺の和尚がかけつけて来て、「やれ、待て待て。殺生はいかん。皆ちょっとだけ待ってくれ」と言うて皆を止めたんじゃ。
 「皆の衆、腹の立つのはようわかる。けどこいつを殺しても、死んだ者はかえって来やせん。わしにええ考えがある。まぁまかせてみい」と言うと、皆は「坊さん、どがいにするおつもりじゃ」と坊さんの方へ寄ってきた。
 坊さんはゴウラの前に行くと、「これゴウラ、よう聞け。おまえは今まで何人もの人々や何頭もの牛を殺してきた。ここで皆に叩き殺されても文句は言えんぞ。じゃが、お前がほんまに悪かったと思うて、わしの言う事を聞くなら命だけは助けてやろう。どうじゃ」と聞いたんじゃと。

 ゴウラはおかへ引っぱり上げられて力は出らんし、大勢に囲まれて今にも頭の皿をたたき割られそうで恐ろしゅうて、わなわなふるえておったので、一も二もなく「お坊さま、何でも言う通りにします。どうか命だけはお助けください」と、水かきのついた両手を合わせてぺこぺこと頭を地面にこすりつけたそうじゃ。
 「よし、そんじゃお前は、これから夏の間中、大熊平にある田んぼという田んぼに入って草取りをせえ。そうすれば命を助けてやろう」と言うと、ゴウラは「はいはい、何でもいたします。とにかく今は頭の皿が乾いて苦しくてたまりません。どうかお願いですから、皿に水をかけてください」と頼んだんじゃと。
 坊さんは水を汲んでこさせると、ゴウラの頭にざぶざぶとかけてやったそうな。ゴウラは元気を取り戻すと、坊さんと里の皆に礼を言うて急いでこしらえたオリの中へ入って行ったそうな。

 明くる日からゴウラは、牛のように腰へ縄をつけられて、棒を持った男に見張られながら田んぼの中で草取りをさせられたんじゃ。七日たち、十日たちするうちに、下の出合いの淵が恋しくていてもたってもおれんようになってきてのぉ。それに毎日明けても暮れても、泣き出したいほどつらい仕事が待っとる。
 ようやく治郎作の田んぼが終わって清吉の田んぼへ行き、そこもやっとこさ終わって来てみると、もう治郎作の田んぼには草が青々とはえている。「こりゃたまらん」と、とうとうゴウラはおいおい泣き出してしもうたんじゃと。

 皆もゴウラがあんまり悲しそうに泣くもんじゃから、少しばかり可哀想になり、寺へ行って和尚にどうしたもんかと相談したそうじゃ。
 ほいたら和尚はゴウラに言ったんじゃ。「もう二度と悪さをせんと約束できるか。それができれば放してやろう」。ゴウラは「二度と悪い事は致しません。これからは反対に、この川で人々がおぼれたり、流されたりしないように私がお守りしてゆきましょう。この約束は、この寺の庭に松の木が生えるまで、決してやぶりません」と、里の人々とも固く約束をして、それを石に刻んで寺の手水鉢(ちょうずばち)の下へ埋めたそうな。

 それからみんなに連れられて、出合いの淵に放してもろうた。ゴウラは久しぶりになつかしい住み家へもどれたので、その喜びようはたとえようもなかったそうじゃ。何べんも淵の上へ頭を出しては、みんなの方に手を合わせていたが、やがて水の中へ消えると二度と浮かんではこんかったそうじゃ。 
 それからは別に、出合いの淵の回りで、人やけものがやられたという話も出んようになってのう。みんな、安心したそうじゃ。
 そしてゴウラとの約束が、いつまでも破られないように、この寺の庭には、小さい松と言えども、決して植えてはならんと言う言い伝えが残ったそうじゃ。

 そやさかい、今でも龍蔵寺の庭には松の木は見とうても、ないんじゃよ。これでわしの話も終わりじゃ。さぁ、もうみな寝ろらよ。

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【メモ】

●龍蔵寺の開基は応永31(1424)年で、龍神一族の菩提所として建立された。ここの和尚さんは、狼の話、佐治兵衛と山の神、ゴウラの話にやたらと出てきて大活躍。村誌には歴代住職の名と亡くなった年月が記されているが、1440年に最初の住職が亡くなり、その後1967年まで15人。

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●これが噂の手水鉢。後ろに木製の看板があり、ゴウラ伝説が書かれていたのだと思うが、朽ちて読み取ることがでない。無念なり。

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2012年10月23日

龍神村フィールドワーク5(佐治兵衛と山の神)

続いて、「佐治兵衛と山の神」という伝説に出てくる「森の尾」というところに案内してもらった。猟師と山の神が「おがりくらべ」をしたという場所である。(おがる、とは土地の言葉で叫ぶという意味)

実は小谷さん、西垣内の在所の方で、奥龍神の昔話をご自分で書いておられる。見せていただくと、原稿用紙に手書きしたものを綴じ、厚紙の表紙をつけたものだった。表紙にはなんと、色鉛筆でうっすらと河童の絵まで!

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「佐治兵衛(さじべえ)と山の神」と「出合い淵のゴウラ」の2冊。
これらをお借りしてテキストデータにしたものが、以下である。
小谷さんに「ブログにアップしてもいいですか?」と聞いたら、「かまへんよ、なんも悪ぃこと書いてない」と言ってくれたので、まずは佐治兵衛からどうぞ。

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佐治兵衛と山の神
                        文・小谷博史さん

 この話は今からおよそ二百年ほども昔、この大熊でほんとうにあった事なのです。ここには龍神スカイラインから流れてきている古河谷(こがわだに)と呼ばれる川があり、川の入り口から2キロほどの所に西垣内(にしがいと)という里があって、いりくんだ山々と深い谷にはさまれるように、八軒ほどの家がひっそりと生活をしておりました。毎日毎日、わずかばかりの田畑を耕したり、山からたき木を背負ってきたりの生活で明け暮れておりました。

 そんな人々の中に、一人だけ畑を耕すでもなし、たきぎを一荷(いっか)背負うのでもなし、毎日毎日、山でけものを追って日を送っている男がいました。その人の名前は佐治兵衛と言って、猟師仲間では名を知られた腕のいい猟師でした。えものを追って走るときは犬よりも速く走り、その鉄砲にねらわれたが最後、百に一つ、いや、千に一つも助かる目はなしというほどの腕でしたので、いつの間にか佐治兵衛が今までに仕留めた獲物は、いのしし、鹿、熊、合わせて千頭ちょうどにもなっていました。
 この頃の猟師たちは、自分の仕留めたえものは、その都度、紙に書き留めておきました。もし自分の一生のうちに千匹のえものを仕留める事ができたなら、千匹供養をして、それまで命をうばったけものたちの霊をなぐさめましょう、という猟師の間での掟のようなものがあったのです。

 ある日、佐治兵衛は自分が今まで仕留めたえものの数を勘定してみて「えらいもんじゃ、もう千匹もとったんか。こりゃ、千匹供養をせにゃならんけど、今は銭もないし、どうしたもんじゃろう」と思いながら愛用の鉄砲の手入れをしていました。そして、ふとひざを叩いて「そうじゃ、今日はまだ陽も高いし、ええ“ししやま日和”じゃ。こいからなんど、一匹とってきて、そいつ売った銭で千匹供養したらええわい」。

 そう独り言をいいながら、鉄砲の火縄に火をつける炭火を、どびんの古いのに入れると上から灰をかけ、わらじをはき、使いなれた鉄砲をかつぐと、山奥へと入って行きました。
 その日はどういうわけか、えものらしいえものにも出会わず、ずいぶん歩いていつの間にか、阿里郷(ありごう)という所まで来ていました。その時ふと佐治兵衛は「おかしい。今日はなぜえ、こがいに静かなんじゃろう」と思いました。

 今までどうも思わなかったのに、立ち止まって耳をすませてみても、鳥の鳴き声はおろか、川の音まで消えて、おまけに木の枝も絵のように動きを止めて、そよとも風のない不思議な景色の中につつみ込まれているのに気づきました。
 それでも、今まで数多く不思議な事に出会いながらも切り抜けてきた、肝っ玉のすわった猟師なので、気にせずえものを探しながら山の中を歩いて行きました。

 阿里郷の森の尾(もりのお)と呼ばれる場所にさしかかった時のこと。そこは阿里郷谷と古河谷の本流とが出会う所で、大きな木が生え茂り、昼でも霧の発生する、ひんやりとした薄暗い所なのです。
 その山道に、何か白くて長ったらしいものが寝そべっていました。近づいてよく見ると、驚いたことにそれは、大しらがのじいさんでした。さすがの佐治兵衛も「どうしょうかいな。踏み越えて行こか。いや、もどろうかいな」と思案していると、そのじいさんがむっくり起き上がって、にたりにたりと佐治兵衛の方を見て笑うのです。

 佐治兵衛はもう、このじいさんに背中を向けて引き返す事は、ここでじいさんに食われるよりも恐ろしい気がしました。「ええい、どうにでもなれ」と覚悟を決めて、せいいっぱい目をむいてじいさんをにらみつけました。
 だんだんと落ち着いてきて、よくよく見ると、そのじいさんの大きい事。背たけは一丈(3メートル)ほどもあり、目はほおずきのように丸く、真っ赤で、鼻はわしのくちばしのようにとがり、口と言えば、大きな真っ黒い牙が林のようにはえていて、頭も顔も一面に針金のような白髪で、それはそれは恐ろしい形相でした。
 佐治兵衛は今さらながら、千匹供養もしないで狩りに出かけてきた事を後悔しました。そして心の中で「えらいもんに出会ったもんじゃ。もうわしも、ここでやられるかわからん」と思いました。

 するとじいさんが「佐治兵衛、お前は今、えらいもんに出会ったもんじゃ、やられるかわからん、て思よるなぁ」と言うのでびっくりして「こいつはあかん。人の言わん事でも知っとる。見通しじゃぁ」と思いました。するとまた、「佐治兵衛、こいつはあかん、人の言わん事でも知っとる、見通しじゃぁ、って思よろうが」とぬかしくさるので、佐治兵衛は、もう何も思わんとこうとだまりこみました。

 しばらく黙っていると、じいさんが「佐治兵衛、こがいに黙っておっても、おもしろうない。どうじゃ、わしと“ひしりくらべ”(大声を出しあって競うこと)をして、お前が勝ったら助けちゃる。わしが勝ったら、おまえを食うぞ。どうじゃ」と言いました。
 佐治兵衛はもう、覚悟しているし「せんと言っても、どうせ助けてはくれん。どっちみち殺されるんなら、ひしりくらべでも何でもやっちゃれ」と思い、「よっしゃ。そのかわりおじい、おじいがひしる時は、わしゃ耳ふさぐぞ。そんでわしがひしる時は、おじいの目をふさいでくれ。ほいたらやるさかい」と言うと、じいさんは「おうおう、おまえの言うようにしちゃろうぞ」と言いました。

 佐治兵衛は、腹巻きの中の八幡様のお守りの中から、お守り札を取り出すと、二つに引き破って両手の人差し指に巻き付けると耳にせんをして、「さぁおじい、おじいからやってくれ」と言いました。
 おじいは三尺(1メートル)ほども伸び上がって、空気を腹一杯に吸い込むと、暗いほら穴のような口を開けて大声でひしり出しました。

「うぉおぉおおおおおぉ〜!」

 佐治兵衛はお守りのおかげで何も聞こえませんでしたが、じいさんの前にある木という木は地面につくほどにしなりこみ、葉っぱは一枚残らず散ってしまいました。向かいの山を見れば、あちこちで山崩れおこり、緑だった山は見る見る赤土が崩れ落ち、岩がむき出しのがけ山に変わっていきました。

 ずいぶんと長い間、じいさんは大口を開けていましたが、だんだんと口がすぼんできて、近くの木も折れ残ったものは起き上がってきて、やっとじいさんの口が閉じました。
 佐治兵衛がおそるおそる耳から指を抜くと、じいさんは「佐治兵衛、きさまは、ましなやつじゃ。今までわしがひしったら、たいがいのやつは死んでしもうたもんじゃけど、きさまはこたえんなぁ。よし、今度はきさまじゃ。やれ」と言いました。

 「ほんならおじい、目をふさいでくれよ」と佐治兵衛が言うと、じいさんが松の根っこのような両手で目をふさぎました。佐治兵衛は自分の帯をほどいて、その手ごとじいさんの頭をぐるぐる巻きに巻いてしまいました。そうしておいてから、これも魔除けのために肌身はなさずお守りの中に入れて持っていた、八幡様の八の字を刻んだ弾丸を鉄砲にこめました。
 心の中で「弓矢八幡、どうかこの身をお助けください。今日限り、二度と鉄砲は手にしません。再び殺生はいたしません」と念じながら、じいさんに向けて引き金を引きました。「ばーんっ!」という音と、煙がうすれると共に、じいさんの姿は消えてなくなってしまいました。

 佐治兵衛はしばらくの間、ぼんやりとしていましたが、やがて気を取りなおすと、家に向かって歩き出しました。今までのことは夢だろうかと思って、歩きながらあたりをみまわすと、すさまじい山崩れのあと。木は根っこからひっくり返り、川は崩れ落ちた赤土で真っ赤ににごって、夢ではない事をはっきりと示していました。

 やっとのことで我が家に帰り着くと、すぐさま、となりの家へ行って訳を話してお金を借りました。そして愛用の鉄砲をかついで大熊の龍蔵寺へ行き、和尚に頼んで今まで自分が命をうばった千匹のけものに供養を施すと、鉄砲を寺に納めました。
 その鉄砲は普通の鉄砲と違って、台が三寸(10センチ)ばかり長かったので、のちの人々から佐治兵衛筒(さじべえづつ)と呼ばれるようになったそうです。
 また、佐治兵衛が出会った白髪のじいさんは、山の神が彼の思い上がりを正すために姿を現したのだと人々は語り継ぎました。

 その後、龍蔵寺が、ある時期に無住となった時、他の色々な宝と共に佐治兵衛筒も行方知れずとなってしまったそうですが、今でも阿里郷の森の尾と言われる場所の向かいの山は、人はおろか、山のけものさえ、近寄りがたいがけ山となって残っています。

                                    (おわり)
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ううむ。この表現力。山の神のビジュアルが目に浮かぶ。
「じいさんが松の根っこのような両手で目をふさぎました」なんて、書けますか、ふつう…。
私はこれを読ませてもらって、人間の想像力や表現力を磨くのは「自然」なのだと、本当にわかった気がする。自然を身近に感じながら暮らしている人にしか出来ないことって多いなと。

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さて、現場は山の神と佐治兵衛が出会って、おがりくらべをしたあたり。「森の尾」を望む、車道に立つ。
山の神が「うぉおぉおおおおおぉ〜!」とおがると、向かいの山に崖崩れが起きたという…。

「その崩れたところが、あの山やな」

小谷さんがさくっと指をさした。


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【メモ】
● 高野龍神スカイラインの建設中に、小谷さんは現場(森の尾付近)に弁当を届ける仕事をしていた。その時、熊と出くわして、現場監督が転げ落ちてきた。仁王立ちになって、うおーっとあいた熊の口が真っ赤だった。熊もまた、人間が怖いから逃げた。

●「きさまはマシなやつじゃ」という山の神の言葉もわたしは気に入っている。誰かに言ってみたくて疼く。

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2012年10月19日

龍神村フィールドワーク4 (五百原の犬戻り猿戻り)

再び車に乗り込み、2台連ねて高野龍神スカイラインを目指す。昭和55年に完成した高野山と龍神村を結ぶ山岳道路で、ここを走ると紀伊山地の奥深さ、険しさがわかる。(冬期は凍るので閉鎖される)

6軒ほどの家が点在する西垣内(にしがいと)の集落を下に見て、5分ほど走って到着したのは「犬戻り猿戻り」。言うまでもないが、あまりに険しい崖で犬も猿も越えられなくて帰りました、の意。150年前、長尾熊吉さんが狼の子どもを見つけた崖がある場所だ。
「五百原谷川」と刻まれた橋の上から、4人並んで渓谷を見下ろす。日高川の源流がずいぶん下のほうに見えた。
「こんなとこへ、よう道つけたもんや」と小谷さん。かつての姿を知っている方にとっては、まさかの大変貌なのだろう。

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川をはさんで、向かいの山の中腹には、人が歩ける細い道があるそうだ。150年前、長尾さんはそこから覗き込んで狼の子を見つけた。
母狼に向かって「おーい、子ども一匹おいといてくれー。大事に飼うさかー」と言っておいたら、必ず一匹その場へ残しておいてくれる、ものらしい。
長尾熊吉さんは藤かずらや木の根を伝って崖をおりていき、狼の子をふところに入れた。そして姿の見えない母狼に「もろうていくでー。大事に飼うさかいなぁー」と大声で呼びかけたとか。

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「わしも50年前ほど前に、おやじと木を伐り出したのはこの場所や。初めての山仕事やった」
山を見上げて小谷さんが言った。
そして、
「あの山の、こっち側が奈目良(なめら)さんの家があったとこや」と、ふいに。

気になっていた名前が出たので、はっとする。村誌(昭和62年編さん)に名前のあった方だ。奈目良宗市さん。熊には霊力があるから、昔はふんどしで熊の目を隠したという話をした猟師さんである。

奈目良さんが住んでいたのは、西垣内からは1キロほど上流で、半時間歩いてたどり着く五百原の在所。もとは7、8軒の民家があったというが、昭和28年の水害で山津波に呑まれ、集落はなくなった。(もしかしたら八幡さんの大木もその時に流されたのかも)

「その後、荒廃しきった土地にしがみつき、わずかばかりの田畑と椎茸とそしてクマ捕りに生命をかけてきた人、それは奈目良宗一氏ただ一人であった」と村誌は記録している。

今、廃墟となった五百原はどうなっているのだろう。殿垣内から西垣内をへて、歩いて行ってみたい。どんな場所で、どんなふうに、山の人たちは暮らしてきたのか。
夜とか、ものすごく深い闇なんだろうな。
広大無辺な樹海の入り口で、妄想にまみれる。

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ここで再び、宇江敏勝さんの『山の木のひとりごと』「マヨヒガ」の章より。

 たとえば一つの川筋を一本の木だとして、川かみの支流の集落を根だとすると、いままさにその根の部分が腐食し消滅しているのだ。木の幹にあたる川しもの町や村の中心部にはまだ商店が並び、若者や子供の姿もあって、賑わっているふうに見える。だが根の先の腐れは、やがてそこにも影響を及ぼすだろう。この木はいまや成長をとめ、もしかしたら枯れるかもしれないのである。
 これもまた近代化のもたらした一つの結果である。なぜこのような不都合がおきてきたのか。
 おおまかにいえば、道路ができたのも、自動車や電気製品が普及したのも、都市の側の急激な経済成長のペースで実現したことで、山村の主体性はどこにもなかったからだ。つねに都市の動向に追従し、支配されてきた。しかも膨大な森林資源を供給しながらである。

宇江さんはしかし、「長いサイクルで見れば、また山と森の生活が見直されて、甦ることを信じる」と、書いておられる。
「やがて反省の時代がくるにちがいない」と。
この本が出版されてから今年で28年。猛反省の時代の渦中に、今まさに我々はいるわけで。



(つづく)
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【メモ】

● 村誌によると、奈目良宗市氏は奈目良雅楽頭の末裔であるそうだ。「長身痩躯であるが、彼の風貌には野武士の気品がうかがわれた」と。
奈目良雅楽頭って、なにかわからんのですが。

と思って検索したら、これが…。
http://www.aikis.or.jp/~eiji-ito/ryujin/hometown_cultural_06.htm
奈目良家の屋敷跡があるもよう。このページ、もうちょっと説明文があってもいいと思う。これを見に行くような酔狂なやつはおらんやろと思ってるんかしらんけど、わたしは行きたい。(熊が冬眠したら)

● 五百原は平家一族の亡命の地とされる。龍神の女性、お万と平維盛の悲恋の伝説がある。

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【お知らせ】

和歌山市の匠町ギャラリーにて「Back Country 龍神村展」が開催されます。
mizooさんのワークショップもある?かもしれない。お問い合わせください。
↓クリックで拡大します。

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こちらは毎年、恒例の龍神村・翔龍祭。
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2012年10月18日

龍神村フィールドワーク3 (殿垣内の八幡神社)

殿垣内の集落から川(日高川の最上流部)に向かって徒歩でおりていく。
途中の鹿よけネットをくぐりぬけて小道をゆくと、薪が高々と、壁のように積み上げられていた。都会育ちのみずえちゃんは、「薪でお風呂たくんですかっ!?」と大きな目を丸くした。

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ゆるやかな下りの道を歩いていると、やたらと爽やか。マイナスイオンかフィトンチッドか知らないけれど心地よい。
頭上には木々が生い茂り、左手には湿った山肌、右手は川まで日陰の斜面が続く。そこはわさび畑になっていて、獣害を避けるためのネットが張り巡らされていた。どこもかしこもネットやら柵やらで、歩くたびに開けたり閉めたり、もぐったり、乗り越えたり、ややこしい動きをせねばならない。
山間部の人たちが、どれほど鹿やイノシシに手を焼いているのかを痛感。
狼が絶滅せずに生きていたら、野生動物の頭数もバランスがとれていたのだろうか。

八幡神社の小さな社殿は森を背に、川に面してひっそりと鎮座していた。
神社がある場所はたいてい、清浄で、神秘的で、凛とした気配がある。神聖な土地の気配を察して、何かとお祀りしたくなるのが人間のサガみたいなものなんだろう。

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社殿の前には、ぽっかりとひらけた空間があり「昔はここで八幡さんの祭りもやった」と小谷さん。年に一度、山の神の祭りも、ここで執り行ったそうだ。山の神は女の神様だとよく言われるが、龍神村では古くから男神として信仰されている。そして山の神の使いは狼。

河原や対岸を指差しながら、小谷さんが語る。

「あのへんから千匹目の獲物を追いこんで狼が走りこんできて、獲物を河原でかみ殺して、猟師が、ここにあった木ぃに登って火縄銃で…」

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まるで先週起こった事件のように、まるで見ていたように…。
引き込まれて聞いていると、脳みそがぐらっとゆらぐ。現実とファンタジーの境界が曖昧になる瞬間。(って言うか、そもそも境界は必要なのか?)
民話や伝承と、人間の暮らしが、解け合って混在している世界観。この感覚は現地で土地の方からお裾分けしてもらわないと、味わえない種類のものだと思う。


(つづく)

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【メモ】

● 殿垣内八幡は、源頼氏が京都の石清水八幡宮から勧請した神社。

● 昔の猟師は、山の中で「おーい」と一声だけで人を呼ぶことを禁じた。また一声呼びにも答えてはならない、とした。人間の呼び声であることの証として「おーい、おーい、おーい」と三声呼んだ。一声呼びに答えてしまうと、狸に化かされて山中に引き込まれると信じていた。山で歌を歌うことも忌まれた。

伝説「龍神村のオオカミ」はこちらから。
http://pasaran.seesaa.net/article/295007749.html





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2012年10月16日

龍神村フィールドワーク2 (殿垣内のおおさがり)

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狼神社を後にして、集落の家々をつなぐ細い道を登っていく。
殿垣内(とのがいと)には13軒の家があり、そのうち6軒は空き家とのこと。廃屋となって荒れている建物もちらほらと目につく。
山に沿って上へ上へと家があり、一番上の農家の庭先には、収穫した豆が干してある。その庭から畑へ抜けていくと、いちばん高い平地で集落の方たちが稲束を干す作業をしていた。

それが、見たこともない迫力のもの。「おおさがり」というらしい。

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高さ約5メートル、幅18メートルほどの骨組み(杉や檜の棒)に刈り取った稲束をかけている。全部で8段。高いところはハシゴを使う。最初に干した稲と、新たに干した稲は乾燥の度合いが違うので、微妙なグラデーションとなっている。日当りの良い平地が少ない、山間部ならではの知恵なのだろう。龍神村独特の干し方だが、今も残っているのは殿垣内のみだとか。

「全部干すのにどのぐらいかかるんですか」と聞くと、「20日ほどやな」と作業の手を止めておばさんが教えてくれた。
撮影をする私たちに「あでぇ、今日は化粧してないわしてぇ」と屈託なく笑う。山村の女性はよく働くし、たくましい。
(かつて龍神村では、山越えの荷運びも女性たちが歩いて担ってきたそうだ)

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「おおさがり、ちょうど見てもらえてよかったなぁ」
若々しい声をはずませて小谷さんが言った。

こぢんまりした山里を一望できるその場所で、小谷さんが右下のほうを指差した。
「あのこんもり盛り上がったところが、源頼氏の殿屋敷があったとこよ。殿垣内の殿っていうんは、頼氏(よりうじ)のことや。宇治川の合戦で平家にやられたやろ? その時に、ここへ落ちのびてきたんや」

「そうですかっ」

と、即答したものの実はよくわからない。帰ってから調べやなあかんなと思いつつ、わかったような顔で頷いておく。

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「ほいたら、次は八幡さんへ行きましょか」と小谷さん。猟師の長尾熊吉さんが、大木にしがみつきながら狼を撃ち殺したという、例の現場である。

作業をしていた方々にお礼を言って立ち去ろうとすると、ハシゴの上から「ごくろうさん」と声をかけてくれた。お恥ずかしい。私たちより年長の方々が、一生懸命働いているのに、ほんまに…。
下にいたおばさんは、あぜみちに植えていた枝豆を次々にひっこぬいて「ようさんあるさけ、持って帰りなぁ」と枝の束をたくさん持たせてくれた。
ありがとうございます。

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(つづく)


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【メモ】

●頼氏は源頼政の五男。治承四年(1180年)父、頼政は平家討伐を目論むが、宇治川の戦いに破れて宇治平等院で自刃。頼氏は奥龍神に落ちのびて来た、とされる。

●頼氏は、この地で龍神大和守頼氏と改名し、奥龍神の支配者となる。現在に続く龍神姓のルーツ。

●垣内(かいと)とは、限られたある土地に住居する地縁集団のこと。


伝説「龍神村のオオカミ」はこちらから。
http://pasaran.seesaa.net/article/295007749.html


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2012年10月14日

龍神村フィールドワーク1 (殿垣内の狼神社)

そして再び龍神村。
同行してくれたのは友人のみずえちゃんと、mizooさん。途中、龍神行政局の前で語りべの小谷さんとも合流した。小谷さんは御年66歳で、語りべさんとしてはお若いほうだ。特筆すべきは小谷さんの車である。はっと目をひく真っ青なスポーツカーみたいなやつで、実にお若い。私の中で語りべさんのイメージが、あっさり上書きされた日。(ちなみにTシャツは龍のイラストでした)

まずは道路脇で大きな地図を広げ、4人で覗き込む。目指すは、もちろん狼神社だ。前回聞いた話「龍神村のオオカミ」のフィールドワークですもん。狼神社は大熊地区の殿垣内(とのがいと)という集落にあるらしい。
(前回の記事で、話を聞いた場所が大熊と書いたけれどまちがい。話を聞いた場所は龍神村の「龍神」という集落だった。大熊はもっと奥地で、私は今回初めて行く)

スタイリッシュな青い車を追いかけること約20分、大熊の集落に到着した。狭い旧道に軒先をせり出して昔ながらの家々が迫る。谷あいのわずかな平地にひらけた集落で、山際には龍蔵寺。長尾さんがびびって相談にやってきた寺であり、人形を作り、狼を一発で撃てと知恵を授けたのはここの和尚である。

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小谷さんの車は、ゆっくりと集落を抜けていく。大熊から少しだけ離れた隣の集落、殿垣内に入った。奥には奥があるものだ。

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集落内の道はどこも狭く、駐車できそうな場所はない。どうするのかなと思いつつ徐行していると、とある農家の庭先に、小谷さんは車を乗り入れた。そこはすでに空き家となっているらしい。
おりて見回せば、ここも四方を山にはさまれた谷あいの集落で、平地はわずかしかない。山にへばりつくように数軒の家々が点在し、少しばかりの畑と棚田。

あちこちから水の流れる音がする。山から引いている水が、庭先のドラム缶や、道ばたの水場からあふれて側溝へ、光を反射しながらざぶざぶと流れていた。飲料用にもできる清らかな山の水。こういうのを見ると、日本は水に恵まれた森の国なのだと実感する。

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小谷さんの後について、ぞろぞろ歩く。集落の田んぼに干された稲束が、黄金色に光ってきれいだ。農業をしたことのない私でもうっとり見とれるのだから、遺伝子的に日本人の心の琴線に触れるのだろう。

小谷さんが立ち止まった。
雑草の茂った空き地で振り向き、草むらを指差している。
「ここが、もともとの狼神社があったとこです」
「そうなんですか!?」

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そこは長尾家の跡で、狼はその片隅に埋められたのだ。草にまみれて、石積みの基礎が見えた。
ほんの数メートル上には移築された祠(元の祠が朽ちたため)があり、こちらが現在の狼神社だという。イメージしていた通りの、素朴な祠。

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場所を少し移したのは、どんな理由なのか聞き忘れた。普通なら朽ち果てて忘れ去られていくものなのに、近所の人が新しく祠を作り直したのはなぜなんだろう。
約束を守ってもらえずに撃ち殺された狼を可哀想だと思うがゆえか、狼を畏れ敬う信仰が息づいているためか。

「お前なにすんねん。わしは言うたとおり約束を守っただけや」
山からふっと狼の声が聞こえそう。



(つづく)
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【メモ】
● 大熊の龍蔵寺には、河童伝説も残っている。「出会い橋の河童」といわれる話で、和歌山ではけっこう有名。
posted by きたうらまさこ at 17:51 | TrackBack(0) | 紀州の民話・伝説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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